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2012年に12勝を挙げ、昨季は左腕エースとしての地位を確固たるものにするはずだった。その矢先に告げられた国指定の難病「黄色靭帯骨化症」の診断―。長年、メンタルの弱さを指摘されてきた左腕は、わが身に降りかかった災難すらしっかりと受け止め、前に進もうとしている。一からの挑戦が始まった。
取材・文=菊池仁志 写真=黒田史夫、BBM

しびれる両足を慎重に操りマウンドを守っていた


 投げる機械と化していた。フィールディングやカバーリングの役割を果たせず、ただボールを投げ込むだけ。しびれる両足を慎重に操り、一心に腕を振る。

「ガクガクって崩れ落ちてしまいそうで、瞬間的な動きができませんでした。ベースカバーにも入れないから、(中村)晃には一塁を空けないようにお願いして……」

 5月31日の広島戦(ヤフオクドーム)、6回途中まで投げて3安打2失点(自責1)でシーズン3勝目を挙げたが、とてもマウンドに立っていられる体の状態ではなくなっていた。交代を告げられ、ベンチへと歩を進める1歩1歩に「自分の足で歩いていないようなもどかしさ」を抱く。この試合をもって大隣憲司の2013年シーズンは終わった。

13年の自身最終登板となった5月31日の広島戦(ヤフオクドーム)はベースカバーもままならない状況だった(写真=湯浅芳昭)



告げられた病名と心の内


 異変を感じたのはその1カ月前、4月29日のロッテ戦後のことだった。

「左足がしびれて感覚がない。熱いとか冷たいとかっていう感じすらなかった。でも、(入団)1年目に椎間板ヘルニアになって以来、たびたび登板後に下半身が突発的にしびれることがあったんです。だから、今回もそれと同じだろうと思っていたら、しびれがなかなか引かなかった」

『黄色靭帯骨化症』は国指定の難病だ。原因は不明。最近では12年に巨人越智大祐が発症して手術、現在も復帰を目指している。ほかにも06年に宮本大輔(当時オリックス)、93年に酒井勉(当時オリックス、現楽天二軍コーチ)がこの診断を受け、一軍復帰を果たせないまま引退した。

 症状としては主に下半身のしびれがあり、歩行困難や両足の麻痺を起こす。大隣によると「痛みはなく、長時間正座をした後のような感じがある」のだそうだ。脊柱にある黄色靭帯と呼ばれる靭帯にカルシウムが沈着して肥大化した上で固まり、脊柱が圧迫される病だ。

 周りの人は新聞報道などを見て、深刻な事態だと気にして、連絡もできなかったと言っていました。だけど、僕自身は『ああ、そうなんや』って結構、冷静に受け止めていましたね。早く手術して復帰したいと思えた。離脱することでチームに迷惑がかかるとは思いましたが、手術して、その先長く恩返しできればいいって」

 冷静に事態を受け止めることができた。客観的に最善の策を考えることもできた。そこに左腕の野球人としての成長がある。

 07年ドラフト希望枠で近大から大きな期待を背負って入団。2年目には先発ローテーションに定着して11勝を挙げたが、そのオフ、左ヒジの遊離軟骨除去手術を受けた。

 その後は2ケタ勝利を挙げられないもどかしいシーズンが続く。左ヒジの状態は万全なのに、だ。再三、指摘されたのはメンタル面の弱さだった。「打たれたらどうしよう、ボールになったらどうしようって、後ろ向きな思考でマウンドにいたんですよね」。そんな自分を変えるきっかけが、11年のオフにあった。



心が変わればボールが変わる


 12年シーズンは、12勝8敗、防御率2.03の成績を残し、攝津正と並立する左右のエースと称えられた。オフには侍JAPANに選出され、翌春のWBC本大会でも1次リーグのキューバ戦、2次リーグのオランダ戦に先発。日本を代表してマウンドに上がり列国と対峙した。

 ひと皮むけた姿に、「技術的に何かが変わったということはない」と言う。それでも、新たな取り組みとして11年オフにメンタル・トレーニングを導入したことは大きく影響している。

14年初マウンドで襲う体の震えに、大隣は何を思うだろうか(写真/高塩隆)



「ボールって気持ちが移るものなんです。腕が振れるようになったことで同じストレート、同じ変化球でもキレが上がったことは多少、あると思う」。心を変える、そのきっかけを作ってくれたのが優子夫人だ。

「結婚してすぐ、メンタル・トレーニングを受けてって言われました。奥さんは超プラス思考の人なんです。それまで、僕が投げている姿を見て思うものがあったんでしょうね。僕の前では見せませんが、裏では一生懸命支えてくれているんです」

 登板前にはトレーナーに渡されているチェックシートで、これから臨む戦いに向けての精神状態をチェックする。「長くやっている人に比べたら、まだ触りの部分しかできていません」と言うが、これによってマウンドでの立ち姿が変わった。

「ピッチャーですから、マウンドでどういう態度でいるかも大事なことなんです。点を取られた後に動揺している姿を見せれば、相手はたたみ掛けてくるし、味方の勢いを削ぐことにもなる」。

 演技ではあっても堂々と見せようと心掛けることで、心を整えることができる。「状況判断と次に向かう気持ちの整理の仕方ですよね。ピンチでも1点はOK、ボールが先行したときは四球でも次を抑えればOKと、自分の心に余裕を持てるようになったんです。そのちょっとした違いが大きな違いになることを知りました」

 だから今回も、自分の体に起こった事態と正面から向き合った。そして、自分にできることを整理した。一刻も早く手術して、リハビリに励み、早期の復帰を目指す。結論に至るまでに、それほど多くの時間は必要としなかった。

もう1度自分の足で立つために


 沖縄の降り注ぐ陽光と復帰に向けて開けた視界の明るさがリンクする。至近2年は福岡・西戸崎の球団施設で行っていた自主トレを「暖かい所でやりたい」と変更したのは、自身の体への気遣いと同時に、迫る先発ローテーション枠をめぐる争いへの並々ならぬ決意の表れだ。「1年間、ローテを守ってやるイメージは持てている」

 チームは11年以来のリーグ制覇、日本一奪回へ向け、大量補強を敢行。攝津、中田賢一スタンリッジ、ウルフ……と先発の並びを考えていくと競い合う枠は1、もしくは2という厳しい現実がある。

 その競争はベテラン、若手がひしめく大混戦。それに向けて「沖縄でもう1度鍛え抜いてキャンプインする。キャンプに10に近い状態で入って、もう1回一からアピールする」つもりだ。

1月は東浜[写真左]、巽らとともに沖縄で自主トレを行った。表情の明るさが状態の良さを物語る[写真=黒田史夫]



 それにしても、キャンプを前にした大隣の表情は明るい。これは自身の体と心のバランスがうまく取れているからだろう。術後も下半身のしびれが完全になくなることはないが、「だいぶ改善されていますし、付き合っていかなければならない範疇のもの」と覚悟を持って受け入れている。

 加えて、自分の体をイメージどおり操る感覚を完璧に取り戻しつつあることが左腕をさらに前向きにする。手術後「4〜5センチは細くなった」という大腿部の筋力も、昨秋のキャンプで徹底的に追い込み、ほぼ元の状態に戻した。

 秋季キャンプ前のフェニックスリーグで3試合4イニングを投げ「思っていた以上に普通に投げられた」ことで、「今季のビジョンを明確に描けるようになった」からこその取り組みでもある。「ボールに関しては普通に投げられる。あとはどこまで体の状態を10割に近づけることができるか。野球に起こるすべての動作を含めて」

 復活のマウンドは自分の足で踏みしめる。そして全身を襲う武者震いが喜びを増幅させ、勝負の場へ戻ってきたことを実感させることだろう。2014年、大隣憲司、野球人生の新たな幕が上がる。



PROFILE

おおとなり・けんじ●1984年11月19日生まれ。京都府出身。175cm85kg。左投左打。京都学園高から近大を経て2007年ドラフト希望枠でソフトバンクに入団。1年目から一軍登板を果たし、2年目の08年に11勝を挙げたが、オフに左ヒジ遊離軟骨除去手術を受けた。以降は、2ケタ勝利に届かない年が続いたが、12年に12勝。しかし、期待された13年に国指定の難病「黄色靭帯骨化症」と診断され手術を受けた。通算7年で117試合43勝42敗0セーブ、防御率3.46。
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