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第10回 有藤通世「今より昔の方が投手は上だったかもしれない」

 

ロッテ一筋18年。右の強打者としてチームをけん引した有藤通世は荒々しい時代のパ・リーグを戦い抜いた。その原動力となったのは――。プロ野球の歴史を彩り、その主役ともなった名選手の連続インタビュー第10回。「ミスター・ロッテ」が自らの野球人生を振り返る。
取材・構成=大内隆雄、写真=BBM


甲子園の第1打席で死球受け病院に、「お前は優勝させていない」の声に苦しむ


若い読者は多分知らないことから書く。有藤氏は1964年の夏の甲子園に、高知高の四番打者として出場、優勝した。しかし、有藤氏の夏は、1回戦の秋田工高戦の第1打席で終わってしまった。投球を顔面に受け、そのまま病院に送られたのである。

四番打者抜きで、5試合を勝ち抜いた高知高の優勝は、奇跡と言われた。2年生の光内数喜投手の力投がその原動力だったが、「これこそ高校野球」という見本のような戦いとも言われた。何が起こるか分からないのが甲子園。それが、有藤氏にも高知高にも起こってしまったのである。


 上の前歯が3本折れてしまいました。母親は死んだなと思ったそうです。ところが次の試合(対花巻商高戦)で、キャプテンの三野(幸宏一塁手)が頭にデッドボールを食らったので、こちらも病院送り。とんでもないことになってしまった。それでも優勝したのは、光内-武村(耕三捕手)のバッテリーが、よくしのいでくれたからでしょう。極端なことを言えば、バッテリーだけで勝った。打線は1割台の打率でしたから。勝ち進むにつれ、私は「とにかくベンチにだけでも入れてほしい」と頼んだのですが、許されなかった。

 実はその後、この優勝が私には屈辱に変わってしまうのです。日本一になったのはうれしいことはうれしい。しかし、自分が何かをやったワケではない。それを自覚しているのに、同級生たちに、「お前は優勝させていないじゃないか」とことあるごとにからかわれた。これが悔しくてねえ。私は「よ〜し、今後のどこかの段階で日本一になって、この悔しさを晴らしてやる」と心に誓いました。結局、この悔しさがあったから、のちの野球人生を生き抜くことができたんでしょうね。

64年夏の甲子園で初戦の第1打席で無念の死球。担荷で病院に搬送される


有藤氏が近大に進んだのは65年。当時は、大学選手権が、現在のような「権威」を持たず、優勝しても「オレたちは日本一だ!」という達成感はあまりなかったようだ。

有藤氏が在学中の近大は66年に1度だけ大学選手権に出場、決勝で日大に敗れている。有藤氏の目指す「日本一」は、社会人野球で都市対抗に出場、そこで優勝することだった。


 もちろん大学でも日本一を目指したのですが、私はとにかく社会人で都市対抗に出たかったのです・・・

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プロ野球80年の歴史を彩り、その主役ともなった名選手たちの連続インタビュー。

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