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レジェンドに聞け!

第26回 鈴木啓示「筋力はあくまで投げ込みと走り込みで作るもの」

 

近鉄の大エースとして、歴代4位の通算317勝を挙げた鈴木啓示氏。踏まれても、踏まれても、立ち上がる「草魂」を座右の銘に20年、投げ抜いた。プロ野球の歴史を彩り、その主役ともなった名選手の連続インタビュー第26回。球史に燦然と輝く記録も残した左腕が、自らの野球人生を語る。
取材・構成=大内隆雄、写真=BBM



弱い近鉄では1対0で勝つしかないの決意
力任せに投げ続けて5年連続20勝


鈴木氏は317勝(4位)、78無四球試合(1位)、先発勝利288(1位)、開幕戦先発14回(1位)、ノーヒットノーラン2回(戦後では3人目)等々、数々の栄光の記録に包まれているが、取材・構成者は、これらの記録に勝るとも劣らないのが、5年連続20勝以上(67〜71年)であると考えている。

この間の近鉄の順位は6、4、2、3、3位。それ以前の万年Bクラスチームにしては、ソコソコの順位だが、これは鈴木氏の左腕によるところが大だ。鈴木氏はこの5年間に110勝76敗、勝率.591の高さ。近鉄はこの間、319勝314敗、勝率.504。鈴木投手がいなかったらどんなことになっていたか……。チームの勝ち星の3割5分近くを稼ぎ出した剛腕には脱帽するしかない。しかし、取材・構成者は、それ以上に弱い近鉄で高い勝率の20勝を5年続けたことに驚いてしまうのだ。鈴木氏以後の連続20勝以上は2年が最多。今後も、5年連続20勝以上というのは、ほとんど不可能だと思う。


 5年連続20勝というのは、私にとっては、あまり記憶に残る仕事ではないんですよ。「投手とは何か」「ピッチングとは何か」、といったことをまるで考えていない時代でしたから。とにかく力任せに速球を投げ込む。変化球はカーブだけでしたが、これも、曲がらんし、どこへ行くか分からんボール。そういう時代の5年連続20勝でした。

 ただまあ、1年目(66年)に10勝しましたが、これがチーム最多勝。そういう弱い近鉄に入ったことで、とにかく1対0で勝つしかないんだ、という気構えは、持ちましたね。2年目にもう開幕戦で投げましたが、南海戦でした。1対0の完封でしたか? やはり、でしたね。だから、逆に言えば、先に1点取られたら「ああ、負けた」となってしまいました(笑)。

 当時の近鉄の内情をお話ししますと、あのころ強かった南海との試合の先発予定投手が、スタメンが発表されると、突然「肩が痛くて、投げられない」と言い出すのです。それで、私に出番が回ってきたこともありました。考えてみれば、ずいぶんな話なのですが、当時は「ああ、オレを使ってくれるんだ」と勇んでマウンドに行ったものです。高校時代から、試合は勝つものだ、と教育されてますし、実際、そうしてきました。トーナメントは負けたら終わりですから。それが、負けることが平気で、笑っていられる世界があるのか、というのはショックでした。

 でもこういう環境は、私の気性には合っていたのかもしれません。球場は狭い(当時の日生球場は、両翼90メートル足らずだったという)、打線は打ってくれない。こういう悪条件は、かえって私を奮い立たせてくれた。「ようし、オレが弱いところを強くしてやろうじゃないか」と。私の、「この野郎!」精神がムクムクと頭をもたげてきたのです。強いチームに入って、チヤホヤされたら、私はかえってだらけてしまったかもしれません。

 それでもチームは・・・

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“レジェンド”たちに聞け!

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プロ野球80年の歴史を彩り、その主役ともなった名選手たちの連続インタビュー。

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