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レジェンドに聞け!

第27回 藤田平「あの頃のオールスターは今の100倍ぐらい魅力がありました」

 

阪神の生え抜きで初めて2000本安打を達成した男。田淵や江夏など個性の強いナインの中でプレーしたが、その芯の強さが自信を名選手へと成長させた。プロ野球の歴史を彩り、その主役ともなった名選手の連続インタビュー。藤田平氏が19年間のタテジマ人生を語る。


あの吉田義男氏が自分の後継者と定めてよく教えてくれた


今回登場の藤田氏は、1965年の第1回ドラフトで指名された内野手。この第1回で指名された高卒組で投手には逸材がそろっていた。堀内恒夫(巨人)、鈴木啓示(近鉄)、木樽正明(東京)、森安敏明(東映)。このドラフトでは入団しなかったがのちにプロ入りする平松政次(中日指名)、江本孟紀(西鉄指名)と大豊作。ところが、高校出野手となると、意外なほどに人材が少ない。その少ない中で傑出、突出していたのが、藤田氏だった。弱冠19歳でセ・リーグ打者のトップに立ってしまったのだから。

1年目の66年、早くも68試合に出場して才能の片りんを見せ、2年目の67年には大ブレーク。最多安打=154、最多二塁打=30、最多三塁打=10。同一シーズンで二塁打と三塁打が最多というのは、川上哲治(巨人)、広瀬叔功(南海)に次いで3人目の快挙。藤田氏は47年10月19日生まれだからシーズン中は19歳(この年のセ・リーグ閉幕は10月19日)。恐るべき19歳の出現だった。


 まあ、2年目は無我夢中でやっているうちに、そういうことになった、ということですかね。川上さん、広瀬さんの次というのは知りませんでしたねえ。

 私はちょうどいいころに阪神に入りまして、それまでの名ショート・吉田義男さん(元監督)が、「そろそろ自分の後釜を」ということで、スカウトの方に「そういう選手を獲ってくれ」と要請したらしいのです。そういうことで、吉田さんからは、いろんなことをよく教えていただきました。安藤さん(安藤統男氏、元監督)が入ってきたとき(62年)は、教えなかったそうです(笑)。まあ、ライバルになるかもしれない人ですからね。

 バッティングは、山内さん(山内一弘氏)と藤井さん(藤井栄治氏)がおられたのが、幸運でした。山内さんは、1年目、私にそこに座れと言って、この世界で一番大事なことは、ほかのいい選手のところに聞きに行くことだ。それと、苦労した人が書いた本を読め。また、外の世界の人と付き合うこと。一代で名声を築いた人と付き合うと、いろんなプラスを自分にもたらしてくれる。さらに野球のルールをよく勉強しろ。新幹線の移動の車中でルールブックを読め。まあ、盛りだくさんのアドバイスです(笑)。でも、私はこれをず〜っと守りました。

 話が横道にそれますが、阪神はルールの教育が徹底していまして、私が入ったころは、キャンプで入団1、2年目の選手は1カ月間、毎日ルールの勉強をさせられました。眠い目をこすりながら1時間、そのあとに各自の素振りが待っています。でも、これも役に立ちましたね。あのころ、12球団ルールテストというのが行われていまして、阪神はトップでした。その後、このいい習慣はいつの間にか消えてしまった。私が監督のとき(95〜96年)、これを復活させました。審判の福井宏さんに来ていただいて。私がやめたら、また消えてしまった(笑)。大事なことなんですけどね。

 元に戻りますと、ほかの選手に聞け、ということでは、村山さん(村山実氏、元監督)にもお世話になりました。「お前は左なのだから張本(張本勲氏、東映)や近藤さん(近藤和彦氏、大洋)の話を聞け。オレが話を通してやるから」と村山さん。オールスターなどでじっくりお2人から話をうかがうことができました。

 藤井さんは、同じ左打者で、ロッカーが同じでしたからよくアドバイスしてもらいました。とにかく広角に打て、これをしょっちゅう言われました。藤井さんは、極端にグリップの細いバットを使っている。まるでノックバット。私のもそれに近く、手が小さいのと、バットのしなりで打つタイプでしたから。だから、藤井さんのアドバイスはピッタリでした。

 とにかく、昔は、コーチがいまのように手取り足取りで教えるなんてことはありませんでしたから、いろんな人の話を聞き、そこから自分で考え、自分でやってみるしかなかったのです・・・

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“レジェンド”たちに聞け!

“レジェンド”たちに聞け!

プロ野球80年の歴史を彩り、その主役ともなった名選手たちの連続インタビュー。

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