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第33回 山本浩二インタビュー「対ジャイアンツというのを非常に意識していました」

 

プロ野球の歴史を彩り、その主役ともなった名選手の連続インタビュー。第33回は“ミスター赤ヘル”山本浩二氏の登場だ。衣笠祥雄とともに広島打線の中核を担い、黄金時代を築き上げた。何度も広島に歓喜を導いた打棒は忘れることができない。通算536本塁打のスラッガー、山本氏が語る野球人生。
取材・構成=大内隆雄、写真=BBM


法大時代、田淵と2打席連続アベック本塁打。あの75年球宴の衣笠との連続アベックの予行演習!?


 今週は“ミスター赤ヘル”山本浩二氏の登場。現役引退が1986年。山本氏のプレーをその目で見て興奮した人は、もうかなりの年齢になっているハズだ。若い読者は、カープの2度目の監督時代をようやく知るぐらいだろう。ましてや、法大時代となれば――。

取材・構成者は、まずもってこの往時茫々(ご本人もそうだろう)の法大時代の山本氏を紹介したい誘惑にかられてしまう。とにかく法大4年時の山本氏は、同級生だった田淵幸一氏(のち阪神西武)より、すごい打者に見えたのだから。4年時、つまり68年は、春は山本氏が打率.419、2本塁打、12打点。田淵氏が.289、6本塁打、15打点。秋は山本氏が打率.357、4本塁打、8打点。田淵氏が打率.211、3本塁打、8打点。打撃が安定しているという点では、山本氏の方が一枚上である。しかも、無類の強肩(当時は右翼手)。小さいテークバックから素晴らしいボールが捕手のミットにピシャリ。

山本氏の底力を見せつけたのが、68年秋の東大1回戦だった。東大の先発は橘谷健氏。卒業後、70年の都市対抗では準優勝投手となり、久慈賞(敢闘賞)を獲得したほどの好投手だ。その橘谷投手から4回、四番田淵がカーブを左翼ポール際にホームラン。続く五番・山本は外角ストレートをジャストミート。打球は一直線にバックスクリーンへ。この打球について、橘谷氏はのちに「真っすぐ一本狙いだったね。それにしても、見事な打球だった。山本に会うたびに、彼はこの打球を自慢しましてね」と語ってくれたことがある。当時、プロでも神宮のバックスクリーンに飛び込む打球などめったにお目にかかれなかった。

5回、橘谷投手から田淵氏が今度は左翼中段に。負けじと山本氏は左中間にたたき込んだ。四、五番の2打席連続アベック弾。当時の法大打線の破壊力を象徴する4本の本塁打だった。今春の東京六大学リーグ戦、法大は何と61年ぶりという開幕6連敗。打率はこの時点で東大より下。68年当時の法大を知る者にとっては寂しい限りだ。それはともかく、山本氏の2打席連続アベックと言えば、そう、75年のオールスター第1戦(甲子園)での僚友・衣笠祥雄氏との連続があまりに有名だが、法大時代、山本氏は“予行演習”をやっていたのである。前置きが長くなり過ぎたが、野球史上の1つの事実として読者にお伝えした次第。


 いやあ、そんなこともありましたねえ。2打席連続アベックというのは、いまでも六大学記録じゃないですか。最初の一発はね、外角低めの、かなりいいボールだったんですよ。たしかに、いい当たりでしたね。ハッキリ覚えています。

 法政では、やはり、松永さん(怜一監督、のちロス五輪監督)との出会いが大きかったですね。田淵や私は松永さんといわば同期。監督に就任された年(65年)にわれわれは入学しましたから。松永さんは田淵をいずれ四番に据えることは、もう決めておられた。その前後をだれに打たせるか、ターゲットになったのが私と富田(勝内野手、のち南海ほか)でした。そりゃハンパじゃなかったですよ。全体練習が終わってから毎日、毎日ノックの雨です。暗くなっても終わらない。ボールに石灰をまぶしてまたノック。「なんでや」と逃げ出したい気持ちになりました。でも、富田に負けちゃおれんと思いますから、頑張りました。

広島入団後は、広岡、関根両コーチにとことん鍛えられる。マシン打撃のあとは両手指が開かず


75年のオールスター第1戦[甲子園]で衣笠と2打席連続アベック本塁打。初Vへのノロシとなる。左は巨人・長嶋監督


 この猛練習はね、広島に入ってからも続くんですよ・・・

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プロ野球80年の歴史を彩り、その主役ともなった名選手たちの連続インタビュー。

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