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第38回 高橋直樹「母親のおかげでここまでやれた」

 

プロ野球の歴史を彩り、その主役ともなった名選手の連続インタビュー。第38回は都合4球団で投げ続けたサブマリン、高橋直樹氏の登場だ。巧みな投球術を駆使して各球団で活躍、サブマリンとしては史上6位の169勝をマーク。自己主張しながら送った18年のプロ野球人生の軌跡を自らの言葉でたどる。
取材・構成=大内隆雄 写真=BBM



プロ野球の一流の下手投げ投手は、頭脳明晰で、高校、大学でも成績優秀な人が多い。皆川睦雄氏(南海、米沢西高)は、東大受験も可能な球児だったし、杉浦忠氏(南海、挙母高-立大)は、立大卒業時、プロ、日本ビール(現サッポロビール)、朝日新聞という選択肢があったという。山田久志氏(阪急)も進学校の熊代高出身で、オリックスのコーチ、中日の監督を務めている。

今回登場の高橋直樹氏は、そういう系譜の中でも、極めつきの人だろう。中学時代、大分県全県の模試で26番になり、津久見高普通科の入試ではトップ合格。プロ野球のOB、現役で、公立校の普通科に一番で受かったなどというのは、恐らく高橋氏1人だろう。

スンナリ早大にも合格。日本鋼管-プロと進む。まあ、文武両道というのは、言うはやすしで、有名国立大出の選手でもプロでの成功者はほとんどいない。ところが高橋氏は、通算169勝。下手投げで高橋氏より勝ち星が多いのは、山田、皆川、秋山登(岡山東高-明大-大洋)。杉浦、足立光宏(大阪西高-大阪大丸-阪急)の5人だが、いずれ劣らぬ名投手たち。しかし、高橋氏は、この5人ができなかったノーヒットノーランを達成している(73年6月16日、対近鉄)。また、先の5人は、いずれも入団球団で野球人生を全うしているが、高橋氏は4球団を渡り歩いている。そういう運命と言えばそれまでだが、1球団でおさまらないところに、高橋氏の「一番で合格」の元学業優秀児の自己主張があったような気がする。イヤなものはイヤ、と言わないではおれないのだ。今回は、そういうプロ野球人の人生を――。


「休ませてくれるのなら」と主張して東映入団
捕手と二遊間に助けられ13勝


78年の力感あふれるフォーム。翌79年、34歳で初の20勝を達成



 私はとにかく体力がなかったのです。だから、東映に指名されても(67年3位)、社会人に進んだのです。ところが東映のスカウトの方が、ず〜っと私を追いかけて「入ってくれ、入ってくれ」。たまたま、春のスポニチ大会で早稲田で同期で大昭和製紙に入った三輪田勝利、彼も近鉄を拒否したのですが、と対戦して4対0で完封したり、都市対抗の三菱重工水島戦で1安打完封(1対0)したりしたものだから、ますます「入ってくれ、入ってくれ」。で、私も、東映に対し「ゆっくり休ませてもらって投げるのなら、やってみます」と返事して入団したワケです(ここで早くも、自己主張が顔を出している。なかなか、こういうことは言えないものだ)。

 幸運だったのは、種茂さん(雅之捕手)がいたことでした。種茂さんは「お前の決め球は何だ?」と聞き、「シュートです」と答えると「シュートをとことん投げて悔いはないな」と言ってくれたんです。こういうアドバイスは助かるんですよ。自分の方向性がパッと定まる。それで、私は、いつも種茂さんと組むようになった。種茂さんも社会人(丸善石油)出身で、コントロールのよい投手が好きだったんですね。ここも相性がよかった。

 それと、当時の東映の二遊間が素晴らしかったのが大きかったですねえ。私はゴロを打たせる投手ですから。大下さん(剛史二塁手)と大橋(穣内野手)です。特に大橋には助けられました。芝生の上に立つぐらいに深く守り、それでいて、前へ猛ダッシュして、緩いゴロもさばいてくれる。そりゃあ、西本さん(幸雄阪急監督)が引っ張りますよ(72年阪急移籍)。

 で、1年目は13勝13敗となるワケですが、前半が2勝1敗ペースで、後半が1勝2敗ペース。やっぱり、後半は疲れちゃったんですね。中3日で投げるのが続きましたから。いまのように、中継ぎ、抑えというパターンが確立していたらもっと勝てましたね(笑)。

後楽園人工芝化でそれに対応
左打者の外角へ落ちるカーブマスターで活路


 足首を鍛えるつもりでスケートを始め、かえって足首をひねって捻挫してシーズンを棒に振る(72年)というバカなこともやりましたが、73年には12勝9敗と初めて勝ち越すことができた。そして、75年には自己最多の17勝。77年も17勝。これは、野村さん(克也捕手、南海)や長池さん(徳二外野手、阪急)や門田(博光外野手、南海)にしばしば手痛い一打を食らい、何とかしなくてはと、タテに切るカーブを覚えたのが大きかった。これは、特に左に有効で外から曲げると打者は見逃してくれるんです。ボールと判断したのですかね。でも、それはみんなストライク。これでカウントを稼げるようになった。76年に後楽園球場が人工芝になり、マウンドがお椀型になった。それまでのなだらかな傾斜から、左足がストンと落ちる感じの傾斜です。ここはどうしてもひと工夫しなくてはと思ったのです。

 まあそれはよかったのですが、日本ハムとなった3年目(76年)に大沢さん(啓二監督)が監督になったことで、どうもギクシャクしてきました。端的に言えば・・・

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プロ野球80年の歴史を彩り、その主役ともなった名選手たちの連続インタビュー。

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