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わが思い出のゲーム

内藤尚行氏が語る“疑惑のアーチ”と“ギャオスの16球”

 

“ギャオス”の愛称で親しまれたギャオス内藤こと内藤尚行は、数々の名シーンを残してきた。その中でも特に印象に残っているのが自らも「奇跡が起こった」と振り返るヤクルト優勝の足掛かりとなった1イニングだ。
取材・構成=阿部ちはる


1993年9月2日 ヤクルトVS中日@ナゴヤ球場〜最悪の状況で訪れた登板


多くの野球ファンの記憶に深く刻まれているのは、1990年の開幕戦ではないだろうか。8回裏一死二塁で、巨人篠塚利夫が右翼ポール際に放った打球がホームランと判定され、同点になったシーン。内藤尚行はマウンドに手をつき、「ファウルでしょ!」と叫んだが、判定が覆ることはなかった。

審判が4人制となった1990年の開幕戦で、早速“疑惑”の判定が。同点とされるも、「それが僕を有名にしてくれた」と内藤


“疑惑のアーチ”については、野球人としてありがたいプレーだったと思います。あの一打でプロ野球選手として有名になれたので。もちろん勝ちたいという思いはありました。開幕戦でしたし。でも結果的には11回を投げ切ったので仕事はできたという満足感があったのも事実です。

 ただ、僕の思い出のゲームはその3年後、93年の三者連続三振にしようと思います。

 成績も出なくて、落ち込んでいた時期。さらにこの年は伊藤智仁(現ヤクルトコーチ)というとんでもない新人が出てきて、僕が一軍に上がったのは夏場。チームに貢献できていなかったんです。状況は中日との首位攻防戦。連敗し、ゲーム差なしとされた3連戦の3戦目でした。

 振り返るとこの年の春季キャンプでの最初のミーティングで野村さん(克也、当時監督)が優勝するための10カ条というお話をされたんです。その中のひとつに「同一カードを3連敗しない」というのがありました。当たり前のことではあるんですけど、それが僕の頭の中に入っていました。状況は2対2の同点で迎えた延長15回。ここを引き分けで終わるのと、負けて終わるのとでは全然意味合いが違うんです。

 僕はリリーフとして準備していて、ランナーがいようがいまいが4人目のパウエルから行くと言われていました。こういう状況ですから、本音は「出たくない」ですよ。ただその中でも一番の理想は二死一塁ですよね。ですが、四球、フィルダースチョイス、バントヒット……、無死満塁という最悪な状況で出番がきてしまったんです。しかも僕はこの日が今季5試合目。防御率4点台なんですよ。そんな僕をこの状況で出しても抑えられるわけないって、みんな思っていたと思います。もちろん僕もそうでしたから。

ギャオスの16球


当時のルールでは、打者ごとに捕手がマウンドにいくことが許された。三番・パウエル、四番・落合博満、五番・彦野利勝のクリーンアップに対するとき、毎回マウンドに来てくれた古田敦也の言葉は心強かったという。内藤は古田の要求どおりに投げるだけだった。

二死後、彦野を迎えたときに「ここで打たれるのがオレだよな」という考えが頭をよぎったという。いい意味でのネガティブな考えが、冷静な投球につながった


 僕が考えていたのは、ホームラン、押し出し、パスボール、ワイルドピッチさえしなければ、僕のせいじゃない、ということ。自分の中で逃げ道を作ったんです。三者連続三振で抑えるとか、打たせてどうこうとかっていうのは僕の中には正直なかったですね。ヒットと犠牲フライなら仕方がない、という感じ。そういった気持ちでマウンドに行ったときに、キャッチャーの古田さんがすごく冷静に、その日の打者の調子と的確なアドバイスを言ってくれました。

 ここからが「ギャオスの16球」の始まりです。まず、パウエルを迎えたとき、古田さんに「とにかく逃げるな」と言われたんです。ただ、逃げないどころか、古田さんはパウエルの真後ろに隠れるくらいインコースに構えているんですよ(笑)。よう投げ切ったよ、ほんとに。続く2球目は、パウエルの手首付近に行ってしまい、「押し出しだ」と思いましたね。それをパウエルがよけてくれた。それでカウント1-1。ここで奇跡の真っすぐが。置きに行ったボールがお辞儀してフォークのように落ちちゃった(笑)。それを空振りしてくれて、「いける」と。そして最後は“空振りゾーン”。まあ、狙ったわけではないんだけど、腕を振ったらたまたまインハイに行って三振がとれました。

 次の打者が落合さんだったのですが、古田さんが、明らかにパウエルのときと違って優しく「ギャオス、なにでストライク取れる?」と。「なんでもいいっすよ」と答え古田さんが戻ると、急に後ろから肩を抱きに来る人がいたんです。それが池山(隆寛、現楽天コーチ)さんです。耳元で「相手2億円だから頑張れよ」って(笑)。激励なのか、間を取りに来たのかはよく分からないけど、池山さんなりの励ましの言葉だったんでしょうね。でもそれは普段から冗談を言い合える僕と池山さんの関係があるからこそ。絶妙なタイミングで絶妙なコメントでした。

 落合さんへは全球フォークでした。ただ、初球はど真ん中。2球目は「気をつけよう」と意識して思いっ切り腕を振ったら、思いっ切りワンバウンド……。もちろん古田さんは全部止めてくれるからパスボールの心配はまったくしていなかったけど、明らかなボール球を振ってくれた。その瞬間に、落合さんも緊張してるんじゃないかなって感じましたね。

 3球目のセットポジションに入ったとき、僕は反射的にプレートを外したんです。打者が間を取るような気がしたのと、握りがばれているような気がして。ロジンをたたいて「よし。決めよう」と投げたら、またしてもど真ん中。でも落合さんがピクリともせずに見逃しちゃったの。今考えると、焦らずに間を取ったのが良かったのかもしれないですね。

 3人目の彦野さんはこの日7打数ノーヒットですが、バットは振れていたんです。ただ、打席内容を見ると、引っ張りに入っていた。そこで古田さんが「ギャオス、スライダーのボール球のサイン出すから」と。僕にそんなボールあったかな?と思いながらうなずきました(笑)。このスライダーが要求どおりに投げられたこともあり、カウント2-2。最後、古田さんが選んだのはアウトローの真っすぐでした。ピッチャーの生命線。原点です。渾身の1球でした。主審の福井宏さんがうなっていたね(笑)。映像があればぜひ見てほしい。ただ僕と言えば、言葉も出ないほど、口の中がカラカラでした。

 野村さんが「(優勝への)ひとつのターニングポイント」と言ってくれたように、チームはその後ほとんど負けずに優勝まで走り、逆に中日は落ちていって、最終的には7ゲーム差をつけて優勝しました。そして池山さんや古田さんがかけてくれた言葉もそうですが、これが野球なんだな、とあらためて感じましたね。投げるのは一人ですが、その周りの言葉や空気、ムードを作り出すのはチームです。そして野球ファン、選手、コーチもみんなで作っていくのがプロ野球なんですね。何年経っても中日ファン、ヤクルトファンの方にこの試合のことを思い出してもらえたり、引退してからも声をかけてもらえると、「自分もプロ野球選手だったんだな」とあらためて思えますから、うれしいですね。

PROFILE
ないとう・なおゆき●1968年7月24日生まれ。愛知県出身。豊川高から87年ドラフト3位でヤクルト入団。3年目の89年に12勝を挙げると90、91年には開幕投手を務めた。92年には10セーブを挙げるなどリリーフとしても活躍。しかし93年に肩を痛めた影響で出場機会が減ると、95年にロッテ、96年には中日へ交換トレードで移籍。97年に引退した。13年にはBCL/新潟で監督を務め、現在は野球解説者、さらにはギャオス内藤としてタレントとしても活躍中。通算成績は195試合登板、36勝29敗26セーブ、454奪三振、防御率3.96。

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