日本、アメリカ、独立リーグと28年に及んだ波乱万丈の野球人生だった。1987年に巨人のドラフト1位としてプロの門をたたき、自慢のスピードボールを武器に多くのファンを魅了した。数ある思い出深いゲームの中から、とっておきのエピソードが詰まった2試合+番外編を加えた、マイ・ベストな3つのゲームについて語ってもらった。 取材・構成=松井進作 2年前の悔しさと功を奏したパウエル対策
シーズン中盤まで首位の広島に最大11.5ゲーム差をつけられながらも、巨人が「メークドラマ」で優勝を飾った1996年。そのVを決めた試合で勝利投手になったのが実は木田だった。舞台は10月6日のナゴヤ球場最終戦。その試合前に長嶋茂雄監督から言われた、あるゲキ(!?)が心に火をつけてくれたという。 本当にどのゲームにするか迷いましたが、1996年のナゴヤ球場最後の日に巨人が勝って優勝を決めた試合を選びました。このシチュエーションだけ聞くと長嶋(長嶋茂雄)さんが国民的行事と言った「10.8決戦」を思い浮かべる方も多いかと思いますが、それは94年。僕がここで話すのはそれから2年後のことです。実は94年も僕はその現場にいたんですけど、選手枠の関係で登録を外れていたんです。だからこそ96年は自分が投げて最後に優勝を決められたので、うれしさもひとしおでした。
その日は試合前に長嶋さんに監督室に呼ばれたんですよね。僕だけでなく、宮本(
宮本和知)さん、河野(
河野博文)さん、水野(
水野雄仁)さん、川口(
川口和久)も一緒に。そこで長嶋さんから言われたのが「今日はこの5人で勝つぞ」と。その言葉でこっちのテンションも最高潮に上がったわけですが、すぐに「まあ、それで負けても次の東京ドームでは斎藤(
斎藤雅樹)、槙原(
槙原寛己)、
ガルベスがいるから大丈夫だ」と。それが僕たち5人を発奮させるために意図的に言ったものなのか、本当にただの天然なのかは分からないですけど(笑)。
試合は宮本さんが先発で、僕は2番手で3回からマウンドに上がりました。ほど良い緊張感もありましたし、やっぱり2年前の優勝のときに投げられない悔しさがあったので必死でしたよね。当時の
中日打線には立浪(
立浪和義)、山崎(
山崎武司)らがいたんですけど、一番マークしなきゃいけなかったのが四番を打っていたパウエル。その年に首位打者も獲得して、とにかく打ち取るのが厄介なバッターでした。
当然のようにミーティングでもパウエル対策が入念に練られたんですけど、スコアラーやベンチの見解と指示は「インハイを使え」。確かにデータ上はそこが数少ないウイークポイントだったんですけど・・・
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