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野球浪漫2014

ロッテ 里崎智也 無名から這い上がった野球人生

 


長きにわたり、ロッテのホームベースを死守してきた里崎智也。今季は故障により近年では最少の試合数にとどまっており、皮肉にもそれが、里崎が果たす役割の大きさを示すことになっていたが、左ヒザ故障の回復がおもわしくなく9月11日に今季限りでの現役引退を発表した。
文=石川 悟 写真=高塩 隆

捕手としての矜持


 夏の風物詩、全国高校野球選手権が終わり、野球ファンの目がプロ野球に向く8月末。各チームは総力を上げてラストスパートに入るが、クライマックスシリーズ出場に望みをかけるロッテのベンチに、ベテラン捕手・里崎智也の姿はなかった。

 開幕から1カ月が過ぎた5月。かねてから痛めていた左ヒザがとうとう悲鳴を上げた。無理をすれば、プレーを続けることはできたが、歩くだけでも痛みを覚えるようになり、このままではチームに迷惑をかけるとの思いで手術に踏み切った。

 手術は5月12日、千葉県船橋市内の病院で受けた。「シーズンは始まったばかり。大事な時期に万全にプレーができるようにと思って(手術を)決断した」。投手がヒジの軟骨を除去するのと同様の簡単なクリーニング手術で、当初球団は全治1カ月と発表した。術後のリハビリを加えても遅くともオールスター明けには戻れると、首脳陣はもちろん、里崎もそう思っていた。

 だが、予想以上に回復が遅れた。全治予定の1カ月を過ぎたころから、少しずつ動くことができるようになったが、肝心のヒザは曲げると痛みが走る。術後2カ月が経過したある日、苦しい胸の内を話した。「打つだけなら問題ない。指名打者でいいというならば、いつでもいけるとは思うけど……。でも、自分が求められているのは、そこではない」。正捕手としてのプライドをのぞかせた。

 今季は開幕のソフトバンク戦(ヤフオクドーム)で先発マスクを任されたが、翌日は新人の吉田裕太にその座を譲った。

「自分の立場は分かっている。試合に出るだけが、選手の仕事ではない。チームが勝つために、やるべきことをやるのも仕事」

 2013年シーズンから指揮を執る伊東勤監督が、里崎の後継者育成を掲げているのを理解しているからこそ、ベンチから試合を見ることも納得していた。

無名からスターへ


 捕手としての原点は小学校2年生のとき。「監督から言われるままにキャッチャーをやっただけ。(捕手候補の)中で一番うまかったんじゃないかな。それ以降は、ほかのポジションをやったことがない」という捕手一筋の野球人生だ。

 プロ野球界に飛び込んだ選手のほとんどは、野球を始めて間もないころから、漠然とプロを意識していたことだろう。だが、里崎がプロを意識したのは意外だが、大学時代と決して早くはない。それもそのはず。鳴門高時代は公式戦の本塁打は「0」で、全国的にはまったくの無名の存在だった。

「そりゃ、そうですよ。高校は本当に弱かったから。練習試合では何本も(本塁打を)打っていたけれど、公式戦は1回戦か2回戦で負けてばかり。甲子園に行くような学校とは、公式戦の試合数が全然違っていた」と振り返る。

 高校の監督から「野球を続けるのならば、大学は関東へ行った方が良い」とのアドバイスで、首都大学リーグの帝京大へ。入学後も後にチームメートになる日体大の小林雅英(現オリックスコーチ)の球を見て、「プロに行くのはこういう人たちなんだろうな」と、自身のプロ入りは現実味がなかったという。

 それでも地道な努力が実り、才能が開花。4試合連続本塁打を放つなど実力をつけるとプロのスカウトから注目されるようになった。「僕自身の思いよりも、周囲が(プロと)言い始めた」。1998年ドラフトの逆指名制度を使い、2位でロッテに入団を果たした。

 一軍に定着したのは03年。この年、正捕手・清水将海(現ソフトバンクコーチ)の控えとしてベンチでリードを勉強しながら、78試合に出場。規定打席には届かなかったが、打率.319の数字を残した。さらに日本一に輝いた05年、橋本将との併用ながら94試合に出場し、強肩強打の捕手としての地位を確立した。「05年の優勝に貢献できたとは思うけど、捕手としては(橋本と)併用だった。僕が本当にレギュラーをつかんだのは06年」と本人は振り返る。だが、その活躍は見る人の目にはしっかり届いていた。

05年にはチーム31年ぶりの日本一の立役者に。しかし里崎本人は、「レギュラーになったのは06年から」と語る



 翌年の第1回WBCの日本代表を率いた王貞治監督は正捕手に里崎を指名。本大会では7試合で先発マスクを任されるなど、全8試合に出場し、4割以上の打率をマーク。ベストナインを獲得すると、その明るいキャラクターもあり、一躍スターの座に駆け上がった。

 WBCでの勢いはシーズンに入っても衰えなかった。116試合に出場し、球団の捕手としては袴田英利(現西武コーチ)以来となる規定打席に到達。「打率(.264)は大したことないけど、球団の歴史に名前が残るのはうれしい」と名実ともにロッテの顔になったことを喜んだ。

際立つ存在感


 野球のポジションの中で唯一、ファウルグラウンドに位置し、マスク越しに残りの8人を見守っていると、自然とチーム全体のことを考えるようになっていった。リードの基本は「チームを勝たせること」。そのために投手の良いところを引き出す配球を心掛ける。結果的に投手に勝ちが付き、チームも白星を手にすると言う。

 長年培われてきた巧みなリードは他球団も警戒する。里崎が戦線離脱後、出る投手、出る投手が打たれて大敗を喫した試合がある。その試合を視察していたパ・リーグのあるスコアラーは言った。

「里崎がいないのが痛いね。ああいう状況になると、投手は誰が出て行っても同じ。捕手がいろいろな配球を考えても、なぜか打者はタイミングが合ってしまう。発想の転換ではないが、緩いボールを何球も続けるようなことをしないと、打開できない。今のロッテでそれができるのは彼だけ」。里崎の抜けた穴の大きさが分かった試合だった。

 ベテランの領域に入った現在も配球は難しいと悩む。「僕のサインが絶対ではない。若手、ベテランに関係なく、違うと思ったら首を振ってくれて構わない。その場面で投手がどういう考えをしているのか分かるし、それは次回以降にも生きてくる」と話す。

 だが、自分のことしか考えていないような場合は、厳しい言葉で叱責することも。それで若手から疎まれることもあるが、「チームが勝てればそれでいい」との根幹に揺ぎはない。

 年々迫り来る「引退」の2文字。プロ入りした選手にとって、絶対に避けては通れない道である事実に対し、里崎は「あと何年野球をやれるか、分からない。中日の谷繁さん(元信=選手兼任監督)のように、誰でも長くやれるわけではない。僕はいつ辞めてもいいように、悔いのないように、毎日を精いっぱいやってきた」と語っていた。

 12年に四国IL/愛媛を最後に引退した橋本は「里崎には1年でも長く野球をやってほしい」とエールを送っていた。里崎自身も「球団に来年も必要と言われる選手でなければいけない」と宣言していたが、ここ数年は、肩、ヒジ、背中、ヒザと次々に故障を抱え、プロ16年目、38歳になった今季は近年では最少の試合数に止まった。そして、9月11日に球団から現役引退が発表された。

 里崎は11日、球団を通して「今季限りでの現役引退を決断いたしました。マリーンズで日本一に2度、WBCにて日本代表として世界一になることも出来ました。自分の野球人生を振り返って本当に満足しています。悔いは全くありません」とこれまでの野球人生を振返り、「16年間、本当にありがとうございました」と感謝の言葉で結んだ。

 ロッテの大黒柱として、また日本代表のメンバーとしてWBC優勝に貢献した誇り高き捕手はファンや関係者に惜しまれながらユニフォームを脱ぐ。

左ヒザの痛みを押してチームを勝利に導いた5月7日のオリックス戦(京セラドーム)から長期欠場中だった



里崎智也 通算打撃成績
9月9日現在
通算15年 試合1088 打数3474 得点409 安打890 二塁打157 三塁打11 本塁打108 打点458 盗塁6 盗塁死7 犠打65 犠飛38 四球368 死球51 三振895 打率.256

PROFILE
さとざき・ともや●1976年5月20日生まれ。徳島県出身。175cm94kg。右投右打。鳴門工高から帝京大を経て、99年ドラフト2位でロッテに入団。2年目の2000年に一軍出場を果たすと、次第に出場機会を増やし、05年の日本一、06年のWBC優勝に貢献。以降は不動の正捕手としてチームの中心に。10年にもリーグ3位からの下克上日本一をけん引した。

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苦悩しながらもプロ野球選手としてファンの期待に応え、ひたむきにプレーする選手に焦点を当てた読み物。

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