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野球浪漫2020

楽天・高梨雄平 信念を貫いた先に 「苦しかった。出口も見えず、どうすれば良くなるのか分からなかった」

 

明確な目標を持って進めてきた野球人生だったが、一度転落した“底”からはい上がるのは容易ではなかった。それでも、社会人時代に下した“決断”が道を切り開く。ドラフト9位入団のサウスポーは、いまやチームに欠かすことのできない存在となっている。
文=中田康博(デイリースポーツ)、写真=井沢雄一郎、BBM


自ら決めたプラン実行も狂い始めた歯車


 その道には、まだ先がある──。2月の沖縄・久米島。高梨雄平はブルペンで黙々と投球を続け、丁寧に一つひとつの体の動作を確認する。「全体的にスケールを上げたい。枝ではなく、それを構成する体の幹を太くする感じです」。その視線の先に、新たなビジョンを確実に捉えていた。

「不完全燃焼」と振り返る2019年シーズン。急性虫垂炎で7月から約1カ月の離脱もあり、登板は48試合にとどまった。ただ、そうした苦難からたどり着ける境地もある。楽天が獲ってくれなければ僕はプロになれなかった。野球ができるのは幸せですね」。その言葉に、反骨の左腕が歩んだ野球人生の原点がにじんだ。

 父の影響で幼いころから野球に親しんだ高梨。父は「右投げならすべてのポジションができる」と考えて右投げ用グラブを購入。だが、かたくなに右手へはめる姿に、いつしか父も右投げへの矯正を断念したという。幼少時代のささいな出来事。ただ、その意志の強さと左利きという個性が、将来を切り開くことになる。

 小学3年で地元・埼玉の「川越リトル」に入団。このころから高梨の目標は明確だった。「野球を始めたときからずっとプロ野球選手になりたいと、そこは一貫していました。ブレたことがないですね。あきらめるような時期は一度もなかったです」。中学で所属した「川越シニア」のスタートは3番手投手。そこから徐々にエース格となり、そして川越東高への進学で、大きな成長曲線を描くことになった。

 県内の強豪校からの誘いもありながら進学校の川越東高を選択したのには、プロを目指す上での計算があった。「強豪校の2番手とかで投げるより、強豪校を倒すほうが目立つと思ったんです。それに(高校の)3年間ではなく、大学までも考えていた。六大学へ行くには勉強もできないといけない。総合的に、プロへの道を多く確保するためのベストだなと」。そしてもう一つ。「阿井監督に教わりたいのはありました」。川越東高を率いたのは、元ヤクルト投手の阿井英二郎監督。この出会いが今につながる高梨の基礎を作った。

「あまり正解を教えない人でした。結果は大事だけど、その過程で何を考え、どう行動したかを重要視していました」と課題に向き合い、考える力が養われた。あえて課された厳しい練習も「他者から掛けられるストレスが世の中にはあり、それにどれだけ耐えられるか」という理由から。「そこのバランスが良かったんだと思います」と振り返った。

 3年夏の県大会は強豪・春日部共栄高を破るなどベスト4進出。甲子園には届かなかったが、注目を浴びた。それでも阿井監督と高梨は「まだその(プロの)水準ではない」と冷静に大学進学を決める。そして'「人生における影響力は大きかった」と話す恩師と過ごした3年間は、その後の困難に打ち勝つ力を与えた。

 いくつかの大学からの誘いを受けた中で選んだのは、入部の確証がない早大の練習会参加。ここにも高梨らしいプランがあった。スポーツ推薦枠に一つ空きがあり、戦力的にもチームは左腕投手を欲していると分析したからだ。「チャンスはある」。打撃の良さも買われた高梨は、見事にスポーツ推薦枠を勝ち取った。

 早大進学後は、すぐさま次の勝負に出る。同期にいたのは有原航平(現日本ハム)。類いまれなる才能に「大学で順調に育ち、ドラ1でプロに入れるタイプ。同じ成長曲線を描いていては自分に投げる場所はない・・・

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苦悩しながらもプロ野球選手としてファンの期待に応え、ひたむきにプレーする選手に焦点を当てた読み物。

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