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28歳の元NPB選手・深江真登 海外で働きながら野球を続ける理由

現在はオーストラリアのメルボルン・エイシズでプレーする深江真登選手。2014年まではオリックス・バファローズに所属していた。(写真=SMP/Ian Knight)

 

日本で通算4年のプロ生活を送った後、アメリカ独立リーグを経て、現在はオーストラリアで働きながら野球を続ける深江真登選手。海外の厳しい環境で野球に打ち込む姿を追いました。
取材・文=前田恵

無給生活からドラフト指名を勝ち取りプロ野球へ


 目標は「プロ野球選手になること」だった。

 そのためには甲子園に出なくてはならないと思った。松商学園を選んだのは、そこが甲子園出場回数1、2位を争う高校だったからだ。高3の夏、甲子園出場を果たしたが、初戦の3回途中、3失点でマウンドを降りた。

2005年の夏はエースとしてチームを5年ぶりの甲子園に導いた(写真=BBM)



 龍谷大進学後はヒジを痛め、公式戦で一度も投げることができなかった。大学で成績を残していなければプロはおろか、社会人野球にも進めない。決して諦めはしなかったけれども、凹んだ。そこへ巡ってきたのが野手としての関西独立リーグ・明石レッドソルジャーズ入団テストだった。

「合格したはいいけれど、明石に入って2カ月目には、給料が出なくなりました。そのとき、他球団への移籍の話もあったんです。でもスカウトが見に来ていたので、そのまま明石に残り、試合に出続けたほうがいいかな、と思いました」

 無給も“クラブチーム”に所属していると割り切り、1年分の生活費を親に借りた。その年のドラフトで、オリックス・バファローズが5位指名。ルーキーながら開幕一軍を勝ち取り、29試合に出場した。

 8月からはスタメン出場も果たしたが、翌12年はシーズン終盤までほぼ二軍暮らし。チャンスをつかみきれなかったところへ13年、北海道日本ハムから糸井嘉男がやってきた。T−岡田、坂口智隆(16年より東京ヤクルト)、糸井と実績十分な3人でほぼ外野は埋まったといっていい。この年守備、代走を中心に44試合。だが8月、2試合続けてのけん制アウト、盗塁失敗で二軍に落ちて以降、深江の姿は一軍から消えた。14年10月25日、戦力外通告。4年間の現役生活だった。

「僕の最大の問題は、メンタル面だったと思います。3年目の初め、キャンプのときはいい感じだった打撃が、あるとき変な三振をしてからおかしくなって、打撃改造したらますます悪化した。それでも打撃は悪いなりに、守備代走要員として一軍には呼ばれていたんです。実際、(森脇)監督さんにもそう言っていただけていました。なのに、そのころ“俺のメンタル終わってるな”と思う出来事があったんです」

 親子ゲームで、二軍の試合に出場したときのことだった。初球、当たり損ねのセカンドゴロ。「見逃し三振しなくてよかった」と思った。森脇監督に、「見逃し三振だけはするな」と言われ続けていたからだ。そう思った瞬間、同時に自分のメンタルの弱さを思い知った。

 そこで4年目は、メンタル・トレーニングの会社と契約。気持ちの持ち方が変わるのを実感し始めていたにもかかわらず、二軍でも出場機会はなくなっていった。
「なんとかこの状況を変えたい、と思いました。だけどアピールする場所が、アップしかなかった。それならアップでもダッシュ1本、最初から手を抜かないでやろうと思いました。選手仲間は褒めてくれたけど、半ば、自分との闘いでしたね」

アメリカの独立リーグでプレーして学んだこと


 まだ野球を辞めたくない。だから腐らず、一生懸命。戦力外通告を受けたとき、それを見ていたコーチが「お前はまだできる」と他チームに声を掛けてくれた。しかし俊足、左打ちの外野手。イチローを見て育った世代に、同タイプの選手は多かった。トライアウトも不合格。オリックス時代から親しかった米国独立リーグ・ランカスターの梶本勇介に「お前もアメリカでプレーしたら?」と誘われた。

「日本かアメリカか。そう考えたとき、日本の独立リーグは一度経験していましたし、それならアメリカだな、と思いました」

 ランカスターと契約したが、渡米するなり、手続きの行き違いで住む場所がなくなるトラブルに。そこへ手を差し伸べてくれたのが、チームメイトとなった渡辺俊介(元ロッテ)だった。渡辺がホームステイしていた個人宅に深江を紹介し、一緒に住まわせてくれたのだ。渡辺との共同生活も、深江にとって大きな学びの場になった。

俊介さんには体のメカニズム、アメリカ人やアメリカ文化のことなど、いろいろ教えていただきました。あの2カ月は僕にとって、非常に貴重な時間でしたね」

 しかし、バッティングの状態がなかなか良くならず、5月20日で解雇。他のチームを探したものの契約には至らず、帰国してまた独立リーグにチャレンジしようかとも考えた。そのとき渡辺にも相談し、たどり着いたのが“せっかくビザが残っているのだから、その期間内は語学学校で英語を勉強する”という選択肢。そこでランカスターを後に、ロサンゼルスで約3カ月の語学学校生活に入った。午前中を練習にあて、午後は学校で文法から英語を学ぶ毎日だった。

 このアメリカ生活で、深江の考え方は大きく変わった。一つは、「アメリカは失敗が許される国」だと教えてもらっかたことによるもの。日本では一度失敗すると、周囲の目や評価も厳しく、なかなかもう一度成功へと返り咲くのは難しい。しかしアメリカは一度失敗しても、「じゃあ、また挑戦すればいい」と考える。10回チャレンジして1回成功すれば、それで良しとする考え方。だから、大切なのは「やるか、やらないか」なのだと。

「そう考えると、僕が明石に行ったとき、“大学で1試合も投げていないヤツが、まだ野球をやっているの?”という空気があったんです。だけど、それでも野球を続けたから、その上(プロ)に行けたんですよね」

 もう一つは、それまで「野球一筋でなければ野球はできない」と思っていた考えを改めたこと。明石時代、実際リーグに「アルバイト禁止」の規則はあったものの、おそらくそれがなくても無給のまま、野球だけを続けていただろう。

「でもアメリカでいろいろな人の話を聞いて、バイトをしながらだって野球はできると思ったんです。日本人はすぐ“体に悪いんじゃないか”とか“疲れるんじゃないか”とか細かいことを考える。そりゃあ実際、疲れますよ。でも、やればできるんです」

 オーストラリアにプレーの場を求めたのは、シーズンが日米とは真逆であることに加え、自身がそんな考え方に至ったためだ。オーストラリアン・ベースボール・リーグ(ABL)はプロリーグとはいえ、マイナースポーツの定めで報酬は安い。オーストラリア人ですら、ダブルワークの選手が多く、週末にしか試合が行われない。ビザも出ないから、ワーキング・ホリデービザでアルバイトをしながらプレーすることになるだろう。

 知人のつてを通し3チームにあたったが、「日本人ならピッチャーが欲しい」と色よい返事は得られなかった。そこで、開幕わずか1週間前に行われたメルボルン・エイシズのトライアウトに参加。そのとき深江を見たエイシズ・ヴァヴラ監督は、「走攻守揃った外野手。こんな選手がなんでトライアウトまでうちのチームの一員じゃなかったんだろうと驚いた」と振り返る。

野球選手としての総合的な能力の高さが決め手となりメルボルン・エイシズに入団した(写真=SMP Images/ABL)



10月31日のキャンベラ戦(6対18で敗戦)に5番手として登板。2回を無失点に抑える。オーストラリアでは大差のついた試合で野手が登板するケースが見られる(写真=SMP/Ian Knight)



田中賢介から返ってきた印象的な言葉


 合格はしたものの、ABLには“外国人選手枠”があり、その枠は各チームと提携したMLBやNPBチームの選手が優先される。深江のような“個人参加”の外国人選手は、どうしても試合数が少なくなってしまう。

「それでもここで野球をやるのは、MLB関係者の目に留まる機会が多いから。今の監督はツインズの現役コーチだし、MLBのスカウトを兼ねたコーチも各チームにいます。スタンドにもよくスカウトが来ているそうですよ。日本ではもう時期的に遅いかもしれないけれども、選手の移籍も多いアメリカならまだ間に合うし、ここで成績を残せば、アメリカでは評価してもらえます」

 ウイーク・デーの午前中は、アルバイト。メルボルン中心部の寿司店などに、車で魚を配達する。エイシズの練習がある日はバイトを早退し、練習に参加。水曜と土曜は、ヴァヴラ監督が仲介してくれた地元のクラブチーム『エッセンドン・ベースボール・クラブ』で試合に臨む。クラブチームとはいってもセレクションがあり、深江のようなABL選手を初め、元マイナーリーガーや元オーストラリア代表選手もプレーしているのだという。

「アメリカ、オーストラリアで野球をやって感じたのが、みな楽しそうに野球をやっていること。特に子どもの指導は、何をやっても、“Good job.”(よくやった)とほめて終わる。野球が楽しいから、自分でどんどん練習もやる気になるんですね」

 深江には一つ、忘れられない言葉がある。

 オリックスにドラフト指名されたあと、鳥取のワールドウィングで田中賢介(北海道日本ハム)に会ったときのことだ。当時、田中の推定年俸は2億7000万。深江は田中に、「どうしたらプロで成功できますか?」と聞いた。

 すると田中はひと言、「運だね」。

「あとあと自分がクビになっていろいろ振り返ってみると、確かにそう思います。ツキのある人間は、ツキのある行動をしている。オリックスにいたころ、自分がツイている人間だったかというと、全く違う。愚痴をこぼしていた時期もあったし、そんなヤツに運が巡ってくるわけがないですよね」

 今ははるか遠い南半球で、なんの愚痴もない。不満があれば、顔にも出る。そんな顔をしていたら、ヴァヴラ監督もクラブチームに働きかけるなど、深江に力を貸してはくれなかっただろう。今、深江の全身にみなぎるのは、ただ「野球をやりたい」その情熱だけだ。

 元NPB選手が海外を渡り歩き、アルバイトをしながら野球を続ける――それだけで、ともすれば『苦労人』のレッテルを貼られるかもしれない。でも……。

「僕は苦労していると思っていないですよ。野球もバイトも楽しんでいます。もちろん、どういう表現をされるのも、見た方の自由。“自由にやってるな、自由人だな”と思われれば、『自由人』と言われてもいいですよ」

 黒く日焼けした顔に、白い歯が浮かんだ。

時間がある時は街を散策したり、携帯のビデオで現地の風景を撮影して気分転換をはかっている(写真=前田恵)



ロッカールームでのひとこま。深江選手を挟んで、左は用具担当マネジャーのジャクソン、右が橋口正邦チームトレーナー(写真は深江選手本人提供)



PROFILE
ふかえ・まさと●1987年9月5日生まれ。神奈川県出身。176cm75kg。右投左打。長野・松商学園から龍谷大に進学。卒業後は関西独立リーグ・明石レッドソルジャーズへ。2010年のドラフト会議でオリックスから5位指名を受け入団。その後アメリカに渡り、独立リーグのランカスター・バーンストーマーズを経て、今季よりオーストラリアのメルボルン・エイシズに所属する。
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