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沢村栄治「栄光の伝説」/生誕100年記念企画その4

【沢村栄治 栄光の伝説(4)】延長16回で36三振を奪った沢村栄治

 

京都商時代。左が慶大・腰本監督



「何キロくらい出ていたんですかね」

 そう尋ねると、同郷で京都商時代の捕手・山口千万石さんが力説する。

「あのころでも150キロ、いや160キロは出ていたと思います。沢村クンのすごいのは外角低めのホップする球と、右打者の肩口から落ちてくるドロップ。このふたつの球は、どんな強打者でも当てるのが精いっぱいでした」

 アマチュアの審判もしていた山口さんは、いつも投手の球を「沢村クンと比べて、どっちが速いか」と思いながら見てきたという。そして、「一度も沢村クンより速いと思ったことはない」と言い切った。

 沢村栄治は旧制・京都商の4年時から主戦投手となり、その快速球と魔球ドロップで頭角を現した。その沢村に興味を示したのが、慶大の名監督、腰本寿だった。当時、大学監督がスカウトを兼ねて、各地の中等学校野球部のコーチをすることは珍しくなかった。腰本は沢村にほれ込み、いつも滞在予定を伸ばしてピッチングの基本を徹底的に教え込むととともに、打者・沢村を“右投げ左打ち”にした。打撃センスを評価し、沢村が慶大に入ったときの打線を考えた、とも言われる。

 沢村の名声は徐々に高まっていったが、京都商は打線が弱かったこともあり、なかなか全国の舞台で勝つことができなかった。甲子園には1933年春、34年春、夏と出ているが、いずれも初戦で敗退。ただ、甲子園以外に目を向ければ、33年秋、強豪・市岡中相手に延長16回でなんと36三振を奪った試合、さらに4年時には夏の甲子園までに「全試合で迎えた打者343のうち三振142だった」という伝説も残る。

 当時、プロ野球はまだ存在していない。京都商卒業後は腰本が監督をする慶大野球部に入ることが既定路線だった。

 しかしながら、そこから沢村は既定の道を外れる。おそらく、自らの意思ではなく。戦後、沢村の父・賢二氏は「あのとき、腰本さんに預けておけばよかった」と何度となく愚痴ったという。(続く)

写真=BBM
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