堅守の二塁手として西鉄黄金時代を支えた仰木(写真は1957年)
プロ野球の歴史の中で、日付にこだわって「その日に何があったのか」紹介していく。今回は5月22日だ。
現在、パの首位をひた走る
楽天を指揮する
梨田昌孝監督。現役時代は近鉄で強肩強打、さらに甘いマスクでマダムキラー(?)として一世を風靡したキャッチャーだ。選手として指導者として、そして野球人として、最大の恩師が“闘将”と呼ばれた
西本幸雄監督であることは間違いないだろう。
ただ、その選手の個性を生かした自在な采配を見ると、現役では最後1年、88年のみの指揮官だった
仰木彬監督の影響を強く感じる。かつての取材で梨田監督自身も「アイデアの豊富さと選手の意見を聞く姿勢、やり繰りの算段、相手の戦力の分析力は勉強になった」と振り返っていた。
近鉄、
オリックスの指揮官として幾多の優勝を成し遂げ、
野茂英雄、
イチロー(現マーリンズ)らの恩師でもある仰木監督には、パンチパーマのコワモテ指揮官のイメージが強いが、選手としても1950年代後半の西鉄黄金時代で堅守の二塁手として活躍している。
1955年5月22日は、仰木がトンボ戦(松江)でパ・リーグ史上初の1試合6打数6安打を達成した日である。東筑高から54年に入団。1年目から名将・
三原脩監督に抜てきされてセカンドのレギュラーとなり、2年目の55年は初の規定打席到達年でもあった。打率.235と決してバッティングの良かった年ではないが、キャリアハイの15本塁打と長打力はまずまずだった。
この日は、相手のトンボがとにかく弱かったこともあって(同年42勝98敗1分で最下位)、仰木のバットが“狂い咲き”。6安打のうちホームラン2本、二塁打1本でチームも15対5で快勝した。
写真=BBM