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沢村栄治「栄光の伝説」/生誕100年記念企画その5

【沢村栄治 栄光の伝説(5)】中退、そして全日本入り

 

千葉県習志野市谷津公園内にある石碑


 京都商の快速球投手・沢村栄治を執拗に勧誘したのは、読売新聞だった。

 もちろん、入社の誘いではない。読売新聞が社運を賭けての一大事業。1934年秋の日米野球のためだ。読売は参加を渋っていたメジャー・リーグの大物ベーブ・ルース(ヤンキース)を口説き落とし、まさに全米最強チームの来日にこぎつけたが、問題は相手をする日本のチームだ。いくら力の差があっても、ボロ負けばかりでは興行として成り立たない。ただ、当時はまだプロ野球はなく、花形は早慶を中心とする大学野球ながら「野球統制令」により、文部省から学生とプロとの対戦が禁止されていた。

 OB中心にチームは組めるが、読売新聞の正力松太郎社長はプラスアルファの「若い力」を欲し、沢村勧誘に運動部長だった市岡忠男を派遣した。これは正力が日米野球だけでなく、そのチームをベースに職業野球チームを創設するプランを持っていたからでもある。

 当然、沢村も中等学校を退学しなければ参加はかなわない。読売から提示された条件は、支度金300円、月給120円。当時としては破格の好条件だった。ただし、スポーツでおカネを稼ぐこと自体が、大相撲以外では考えられなかった時代。周囲のほとんどが反対した。慶大でプレーする夢を持っていた沢村も、当然迷ったはずだ。

 それでも最後まで「どちらでも構わない」と言い続け、父・賢二氏の判断に任せたという。それは沢村家の財政が決して楽ではないことを知っていたからだ。熟考の末、賢二氏は息子を正力に預けることを決意する。

 その後、沢村は京都商を5年生半ばで中退。34年10月14日から全日本チームの合宿に参加した。バッテリーを組んでいた山口千万石さんは「沢村君は慶応に入学する手続きのために東京に行ったと思っていたら、そのまま帰ってこなかった」と振り返る。

 結成された全日本チームの合宿は、千葉県・谷津遊園内の谷津球場で行われた。現在、球場施設はないが、そこに「巨人軍発祥の地」の石碑がある。(続く)

写真=三橋祐子
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