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沢村栄治「栄光の伝説」/生誕100年記念企画その8

【沢村栄治 栄光の伝説(8)】巨人軍結成、第一次アメリカ遠征

 

アメリカ遠征時の巨人ナイン。前列右端が沢村


 大盛況となった1934年の日米決戦。ベーブ・ルースら全米選抜が帰国した後、日本プロ野球創設の動きは加速した。2カ月ほどが過ぎた1934年12月26日、全日本メンバーをベースに、のちの巨人軍、「大日本東京野球倶楽部」が発足(以下巨人)。沢村栄治も当然、その一員に名を連ねた。

 年が明け、35年1月14日から静岡・草薙球場で20日間練習した後、2月14日には秩父丸で横浜港を出発。いわゆる第一次アメリカ遠征だ。7月16日の帰国まで約3カ月半の間にマイナー・リーグ、社会人や学生チーム相手に110試合を行い、巨人は75勝34敗1分けという結果を残したが、アメリカのファンに強い印象を残したのが、日米決戦の快投で「スクールボーイ」と呼ばれた若きエース・沢村だった。

 その快速球とドロップに多くのメジャー球団のスカウトが注目。実際に誘い話も多かったようだが、沢村は米球界へのあこがれはあったものの、当時だから異国での生活は想像もできない。すべてに断りを入れもらった。その中で、冗談のような逸話もある。

 ファンに紛れ、練習後の沢村に契約書をつき出したカージナルスのスカウトがいたという。英語の読めない沢村は、サインと思い込んで名前を書き込んだ。そのスカウトは後日、日本の宿舎を訪れ、「契約書がある。沢村を寄越せ」と言ってきた。最後は「契約書は絶対だ。沢村を渡さないならアメリカのコミッショナーに訴え、トウキョウ・ジャイアンツを除名させる」と脅したらしいが、もともと巨人は米球界となんら関係もなく、そのまま立ち消えとなった。

 遠征中の試合について詳細な資料があるわけではないが、沢村はこの110試合中、47試合に登板し、21勝8敗の成績を残したという。さらに、沢村は、この遠征から帰国後、一風変わった投げ方をするようになった。足を高々と突き上げるフォームである。(続く)
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