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石田雄太の閃球眼

我慢と覚悟と……

 

新浦寿夫(左)と握手を交わす長嶋茂雄監督。写真は11連敗とリーグ最下位を乗り越えた翌1976年のもので、チームはリーグV、新浦は11勝(この年から4年連続2ケタ勝利)を挙げて左のエースに成長した


 プロ野球の記録によって蘇る過去の思い出に浸ることができるのは、野球好きにとっての至福のときだと言っていい。今年で言えば菅野智之が3連続完封を達成したとき、斎藤雅樹の名前が出てきたし、則本昂大が2ケタ奪三振の連続試合記録を塗り替えたときには野茂英雄のことが取り上げられた。そしてジャイアンツが球団ワーストの連敗記録を更新したとき、蘇ったのが“1975年のジャイアンツ”だった。

 このシーズンは、引退した長嶋茂雄が巨人の監督となって、開幕前にはドジャースと一緒にアメリカのベロビーチでキャンプを行った。フロリダの真っ青な空と、一新された巨人のユニフォームを着た背番号90の颯爽とした姿は子ども心にも新鮮で、その写真が表紙になった雑誌は今でも大切に保存してある。ところが、1975年の長嶋巨人は最悪のスタートを切ることとなった。

 とりわけ開幕戦(対大洋)のことは忘れられない。王貞治が左のふくらはぎを痛めて先発を外れ、ON抜きのクリーンアップは三番レフト・高田繁、四番ライト・末次利光、五番ファースト・柳田俊郎。サードには富田勝が入って、センターの柴田勲と一、二番を組んだ。試合は先発の堀内恒夫が序盤に崩れ、王は代打で登場したもののフォアボールで歩かされる。その試合、巨人は4対8で敗れた(ちなみにこの2日前、高橋由伸監督が生まれている)。

 4月を4勝10敗と、スタートダッシュに失敗した長嶋巨人は、ずっと最下位に沈んだまま。9月には1引き分けを挟んで11連敗というチームのワースト記録を打ち立ててしまった。その象徴的な存在がサウスポーの新浦寿夫だ。どれだけ打たれても、負け続けても、長嶋監督は新浦をマウンドへ送り続けた。ファンからはノミの心臓と揶揄され、新浦の名前がアナウンスされるとスタンドからため息が漏れた。それでも新浦のポテンシャルを信じ続けた長嶋監督の期待に応え、新浦は8月31日、神宮球場でのヤクルト戦でついにこのシーズンの初勝利を挙げた(この時点で1勝7敗)。しかも被安打1、12奪三振の完封劇。新浦の才能が花開き、長嶋監督の執念が実った一戦だった。

 じつは、その4日後から1引き分けを挟んでの11連敗が始まる。新浦はその間、3試合に先発しているのだが、1引き分けの試合が1対1で、先発は新浦。6連敗目を喫した試合も新浦が先発したのだが、この試合は11連敗中、唯一の完封負けで、新浦は2失点のピッチング。我慢して使い続けたことで、新浦は連敗の中にあってもわずかな光を放ち続けていた。結果、翌年からの長嶋巨人の連覇を支えるエースとして新浦が君臨したことは周知の事実だ。

 長嶋茂雄という選手を失って、V9を支えたレギュラーが歳を取り、迎えた1975年のジャイアンツ。11連敗を記録し、最下位に沈みながらも長嶋監督は新浦を育て、小林繁を使い続けた。二軍には定岡正二西本聖がいた。この年のドラフトでは高校生の篠塚利夫、大学生の中畑清を指名。80年代のジャイアンツを支える若手を育てる土壌を整えていた。その一方で、最下位に沈んだオフ、トレードで張本勲加藤初を獲得したり、高田繁をサードへコンバートしたり、V9の遺産をうまく使いながら、翌年からの連覇を果たす。

 森昌彦が抜けたキャッチャーには山倉和博を、黒江透修が抜けたショートには河埜和正を使ってレギュラーとして育て上げ、やがては篠塚をセカンドに、中畑をサードに定着させた。ゴタゴタの末に江川卓も加わって、さあ、これからというところで、長嶋監督は解任されてしまう。連覇によって時間的猶予を作り、若手を育てようとしたものの、3年間のV逸で長嶋監督の持ち時間はなくなったのだ。それでも80年代の礎を作り上げたのは、どん底に沈んだ1975年のジャイアンツを立て直すために種を撒き、水をやった長嶋監督だった。その長嶋監督でさえ、ONがそろわぬジャイアンツを再建するために5年の年月がかかったのである。

 もちろん今は、チーム編成の全権が監督にあるわけではない。それでも高橋監督には、新浦を使い続けた長嶋監督のような我慢と覚悟はあるだろうか。そして連敗のチーム記録を更新してしまった2017年のジャイアンツを、5年かけてでも再建してやろうというだけの気概はあるのだろうか――。

文=石田雄太 写真=BBM

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