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プロ野球回顧録

宿敵の将として日本の前に立ちはだかる“韓国の至宝”宣銅烈

 

無人の荒野を行くように投げ続けた韓国時代


韓国ヘテでは11年間で通算146勝、132セーブをマークした


 侍ジャパンの新監督として日本ハムヤクルトで活躍した稲葉篤紀氏の就任が7月31日に正式発表されることになった。2020年の東京五輪で金メダルを獲得するため、日本球界が一丸となって稲葉ジャパンをバックアップしていく。24日、日の丸の新指揮官よりひと足早く、韓国代表監督が韓国野球委員会より発表された。その人物はクローザーとして中日に幾度も勝利をもたらした宣銅烈だ。

 韓国ではプロ入り前から世界の舞台で活躍していた宣。高麗大1年時の1981年に韓国代表としてAAA世界選手権で優勝、翌82年にはIBAF世界野球選手権大会優勝。83年にはIBAFインターコンチネンタルカップの最優秀投手に輝いた。さらに84年のロサンゼルス五輪で4位入賞に貢献。同年12月、実業団の韓国化粧品に入団。実業団の選手は2年間、プロ入りできない規定があったが、特例で翌85年、ヘテに入団した。

 韓国プロ野球では1年目から7年連続で最優秀防御率に輝き、特に5年目の89年からは3年連続で投手3冠を達成。当時の韓国では投手の分業制が確立されておらず、先発、救援に投げまくった。無人の荒野を行くように投げ続け、韓国での通算投手成績は11年間で367試合に登板して146勝40敗、防御率1.20。この驚異的な数字からも、なぜ宣が“韓国の至宝”と呼ばれるのかが分かる。93年ごろから宣は海外進出を模索しているが、現地メディアは「国宝持ち出し、許すまじ」というキャンペーンを張ったという。

挫折から這い上がって栄光をつかんだ日本時代


1999年、中日リーグ優勝の際には胴上げ投手になった


 33歳になった96年1月、ついに来日。中日のキャンプに参加し、4年契約で入団した。2月に最愛の母が亡くなる不幸もあって、1年目は精彩を欠いた。38試合に登板して、5勝1敗3セーブ、防御率5.50。のちに週刊ベースボールで「なんで私のボールが打たれるんだ? という感じでした。投球に不満はあったんですが、でもそれにしてもそんなに打たれるほどひどい球を投げているわけではない。なぜなんだ? と、それからは頭の中がメチャクチャになった」と当時の心中について語っていた。

 迎えた翌97年、「日本式ですべてやってみよう」とすべてを受け入れることを決めた。1月4日から温泉での自主トレに参加。日本の選手と同様に走り込み、開幕に臨んだ。本拠地が広いナゴヤドームに変わったことも追い風になった。同年は打者232人と対戦して被本塁打ゼロ、防御率1.28という圧倒的な安定感を発揮、大魔神・佐々木主浩(横浜)と並んでリーグ最多の38セーブを挙げて、中日の絶対的な守護神に君臨した。

 3年目の98年には29セーブ、契約最終年となる99年には28セーブを挙げて、リーグ優勝に貢献。胴上げ投手にもなっている。だが、ダイエーとの日本シリーズではほぼ出番なし。中日は翌年からのコーチ兼任での残留を要請した。

「私は選手として日本に来ている」と固辞した宣は、同年限りで現役を引退し、帰国した。その後は韓国球界で指導者の道へ。サムスン、起亜で監督を歴任し、今年のWBCでは韓国代表の投手コーチを務めた。そして、代表監督へ。宿敵の将として、日本代表の前に立ちはだかることになった。

写真=BBM
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