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キセキの魔球

【キセキの魔球03】1勝右腕がなぜアメリカへ?

 

2017年6月19日。大家友和は現役引退を発表した。日米を股にかけて活躍した右腕だが、もしナックルボールと出合っていなければ41歳まで野球を続けることはなかっただろう。どこまでも野球と愚直に向き合った大家とキセキの魔球を巡る物語──。

24年ぶりの高卒ルーキー4月初勝利


94年ドラフト3位で横浜に入団した大家


 大家友和が大リーグを目指してアメリカに渡ったのは1999年3月、22歳の春だった。ボストン・レッドソックスとマイナー契約を交わし、メジャーより二つ下の2Aで開幕を迎えた。8勝無敗の成績で早くも6月中旬にマイナーの最高峰3Aに昇格。そこでも3連勝して、マイナー・リーグ11勝無敗の記録を残し、マイナー歴3カ月半という異例の早さでメジャーに昇格した。

 7月19日、ボストンのフェンウェイパークで、日本人9人目の大リーガーとしてメジャー・デビューを果たしている。

 メジャー昇格直前、大家はこう語っている。

「アメリカに来てから野球が楽しくなりました。日本と比べものにならないくらい厳しいけれど、でも、楽しい。こっちに来てから、自分がやりたいことが“ふつう”にできるようになりました。それが一番大きい」

 彼が言った“ふつう”のこととは何だったのだろうか?

 大家は1993年京都成章高校3年の秋、横浜ベイスターズからドラフト3位指名を受け、プロ入りしている。1年目、高卒ルーキーとしては12球団ただ一人、当時の、その年一軍出場資格を見込んだ40人枠入りを果たし、開幕は二軍スタートながら、4月下旬に早くも一軍出場選手登録されている。

 デビュー2戦目となったヤクルト戦で勝利投手となり、1970年近鉄バファローズの太田幸司以来となる高卒ルーキー4月初勝利という大記録を打ち立ててしまった。

 しかし、彼がその日投げた球はたったの3球。8回表二死二塁のピンチで中継ぎとして送り込まれ、一人の打者をレフトフライに打ち取ると、その裏、味方が大量得点で逆転して勝利したため、大家に勝ちがついたのだ。

 当時の横浜、近藤昭仁監督はこう言っている。

「やっぱりこの男には、運があるんだろうなあ……」

濁った世界から抜け出すしか道はない


ルーキー時代に1勝を挙げたが、渡米前に勝利を挙げたのはそのときのみだった(右は谷繁元信


 しかし、この初勝利に大家は苦しめられる。その後の横浜での5年間は暗黒の時代だった。二軍のイースタン・リーグでは防御率1位になるなど目立った活躍をするが、一軍では勝てず、結局渡米前、日本球界ではたったの1勝しかしていない。

 なぜ大家友和は日本では活躍できなかったのか。

 プロ野球選手に憧れてから、プロ野球界とは、プロ意識の高い人の集まりだと思っていた。だが、実際にプロの世界に飛び込んでみると必ずしもそうではなかったのだ。戸惑いや苦い思いを抱えながら、それでも真っすぐであり続けようともがいても、明るい未来は見えてこなかった。

「もし、僕がいけなかったことがあるとしたら、意識が高すぎて、他の人との協調性に欠けてしまったことです」

 そこから抜け出すしか、もう道はなかった。そして彼は、アメリカを目指す。

「そもそもアメリカを目指したのは、メジャーへの憧れと、あとは当時、僕がやらされてきたことの確認のためでした。アスリートとしてのことですね。体に悪いことをしたり、体にいいことをちっともしなかったり、邪魔されたり、そういうものがもし違うなら、僕は力が発揮できるかもしれない。アメリカでも成果を出せないのであれば、僕が間違っているのだから、食っていくために職を変えないといけないです。あのころ感じていた違和感がきっかけでした。それをうまく処理できなかった。憧れた世界がこういうものだったのか、もし自分が間違っていたら、僕はこの世界には合わない人間だということになる」

 横浜を退団するときには引き留める声も多かった。

「日本の球界で実戦を積んでからでも遅くはないんじゃないか」

「大家、そのうちおまえにもきっとチャンスが巡ってくる。それまで必死に頑張るんだ」。

 でも彼は迷わなかった。

「いいんです。ボク、大リーグに向けて頑張りますから」

 渡米を励ましてくれた先輩にはこう言った。

「ボク、何もないし、そう、何もないから……」

メジャーは「自分を表現する場所」


 2010年、古巣横浜ベイスターズで12年ぶりに日本球界に復帰したとき、投手コーチだった野村弘樹氏は、大家友和が18歳でベイスターズに入団したときの横浜のエースだった。

「寮にケーブルテレビを入れてくれという話が出て、最初は何を言っているんだと思いました。本人に聞くと、BSでアメリカの野球が見たいと言うんです。悪いことじゃないのでねえ。今思えば、若い頃から人生プランというか、アメリカでやってみたいという夢を描いていたんだろうね。ゲームで投げる姿を見る機会は少なかったですが、いい力強いボールを投げるなあとは思っていました。あいつ、自分で球団にアメリカ行きたいって志願して、当時においては普通じゃないですから。かなり勇気がいることだったんじゃないかと思います。自分でアメリカのほうがいいと思ったか、自信があったのか、その辺は聞いていませんけど。メジャー・デビューしたときはびっくりしました! あいつ、すごいなあと思いましたね。野茂(英雄)さんとかの経歴とは違うからね。あいつはゼロからのスタートだったんで。アメリカで50勝くらいしているでしょ。大したものです」

 大リーグで活躍するようになると、なおさら日本で過ごしたプロ野球選手としての最初の5年間のあり方が問われるようになる。アスリートとしての終点が見え隠れしたとき、あのときこうだったらもっと可能性が広がったかもしれないと思っても、もう取り返しはつかない。だからベテランになってからの大家は、若い選手にアドバイスするとき、これをしろとは押し付けず、何通りもの方法を理論立てて差し出した。彼らがそれをマネできるかどうかはともかく、自分の手の内は全部見せた。若い選手が野球を愛し続けることができるなら、大家友和はなんでもするだろう。

 メジャー・デビューしたころ、あなたにとって大リーグとはどんな場所ですかと聞かれ、彼はこう答えている。

「自分を表現する場所です」

<次回へ続く>

文=山森恵子 写真=Getty Images
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