この年、南海は野村監督の下、前期V(当時は2期制)。後期は優勝の阪急に1勝もできなかったが、プレーオフで勝利しリーグ優勝。死んだふり優勝とも言われた
プロ野球の歴史の中から、日付にこだわって「その日に何があったのか」紹介していく。今回は8月3日だ。
打撃の神様、
巨人・
川上哲治の大記録が、この日、ついに抜かれた。1973年8月3日の太平洋戦(大阪)、南海の捕手兼任監督の
野村克也が2回に太平洋の先発・
三輪悟から二塁打を放ち、通算2352安打とした。これは、それまで川上が持っていた史上最多安打2351本を抜く新記録だ。
試合後、記者団に囲まれた野村は、うまそうに煙草を吸いながら「うれしいね。あとからの選手のためにも頑張って記録を伸ばすよ」と語った。
ただ、実は違う通算記録について、心中、穏やかではない時期でもあった。野村が史上最多記録を持っていた563本の通算本塁打記録である。
追うは、巨人の
王貞治。この日も
阪神戦(甲子園)でホームランを放ち、野村との差は、わずか2本となっていた。最終的には、この年、初の三冠王となる全盛期の33歳の王と、すでに38歳、明らかに力に陰りが見え、監督職の重責もあった野村。“王座交代”は時間の問題だった。
8月8日の大洋戦(川崎)で王が2本塁打を放ち、ついに野村と並ぶ。誰もが、このまま差が開いていくだろうと予感した。ただ一人、野村自身を除けば、だ。野村は「簡単に抜かれてたまるか。王が打つなら俺も打つ。600号は俺が先だ」と燃えた。
そこから8月中のホームランを追う。
10日、野村、王とも1本塁打。11日に野村が1本を放ち、リードするも12日に王が1本でまた並ぶ。15日、野村が1本も王は2本で1本差。それでも16日に野村が1本でまた並んだ。王は21日に1本で離すが、野村も23日に1本で並び、26日は両者1本ずつ。27日には王が1本で1本差、28日は両者1本ずつ、29日は野村が1本も王が2本で、ついに2本差、30日にも王はさらに1本を加え、3本差。だが、野村は最後まで闘志を燃やし続け、9月以降は王が11本に対し、野村も8本。まさに、老雄の意地を見せた球史に残るデッドヒートだった。
しかしながら翌年以降、野村は、グングンと差を引き離される。結局、600号は王に先を越され、野村の達成は75年の5月22日だった。ここで、あの有名な「俺は月見草」の名言が生まれたが、それはまた別の機会で触れることにしよう。
写真=BBM