1990年、広島が選手育成のためにドミニカ共和国に開校したカープアカデミー。後にメジャーで活躍したソリアーノら多くの選手を輩出した。今年、育成から支配下に昇格したバティスタ、メヒアも同アカデミーの出身で、再び注目を集めている。連載「カープアカデミー物語」で、その歴史をたどる――。 アメリカでつかめなかった夢を日本で
8月14日の登板がリベラの一軍最後の登板に。NPB通算では2試合登板で0勝1敗、防御率は7.71だった
1993年秋季キャンプ、94年春季キャンプと、アカデミー出身の
カルロス・リベラの奇妙な練習が話題となった。
イスに座ったまま秋は五寸釘、春は長さ25センチのテント用の杭を地面に突き刺す練習だ。現役時代は
阪神で活躍した左腕投手、
山本和行投手コーチが指示したもので、「きれいにスナップを使うための練習方法」とのことだ。リベラも「練習の効果はきっとあると信じてるよ」と黙々と繰り返していた。
1970年11月5日、ドミニカ共和国生まれ。父親は郵便局員と農業の兼業で、7人兄弟の4番目だった。
「子どものころ家にテレビが入ってきて、そこで大リーグ中継を見たときは、ショックだった。すごいなって。そのとき、将来は野球選手になって有名になることを誓ったんだ」
高校卒業後、高い身体能力を買われ、MLBのエンゼルスから声がかかり、渡米。ルーキー級で4勝1敗をマークした。「女の子とディスコに行ったり、すべてがうまくいく予感があった」とアメリカでの生活も楽しんだが、3カ月で球団から解雇通知。失意の帰国となった。
その後、知り合いの紹介もあってカープアカデミーの門を叩く。「そこでは、しっかりした練習で驚いた。ルーキー・リーグは、まったく計画性がない練習だったんで」と振り返る。
93年秋のキャンプが初来日。そこで合格し、春季キャンプにも参加。140キロ台後半のストレートとスライダーが武器で、2月15日、年俸400万円で契約した。当時23歳ながら、すでにドミニカには妻子がいた。
アナ・フーリャ・
ラミレス・モーター夫人(19歳)と2人の息子、リベラ・ジュニア君(3歳)、ハビエル君(3カ月)だ。春季キャンプでは、「野球では充実しているけど、休日の寂しさはたまらない」と語り、家族の話になると、いつも目に涙を浮べ、「将来は家族を日本に呼んで安心して暮らしたい」とアメリカでつかめなかった夢を日本野球にかけた。
4月9日、アカデミー出身として初の一軍選手登録。20日の阪神戦(甲子園)では一軍初登板を初先発で飾るも3回途中3失点KO(勝敗はつかず)、8月14日、
ヤクルト戦(広島市民)で2度目の登板もやはり先発だったが、今回は5回4失点で敗戦投手に。おそらく、日本人投手なら「次」もあるが、リベラの「次」はなかった……。
翌95年1月28日、広島が提携していた台湾の時報に移籍。3年間台湾でプレーした後、退団した。カープアカデミー選手の試練は、まだ続く。
<次回へ続く>
写真=BBM