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夏の甲子園珠玉の名勝負

【夏の甲子園 名勝負5】定岡正二×原辰徳のアイドル同士が延長15回の死闘

 

連日、熱戦が続く夏の甲子園。『週刊ベースボール』では戦後の夏の甲子園大会に限定し、歴代の名勝負を1日1試合ずつ紹介していきたい。

テレビ中継打ち切り後、抗議が殺到


この試合で定岡人気は爆発。同年秋のドラフト会議では巨人から1位指名され、プロの世界でもフィーバーは続いた


<1974年8月17日>
第56回大会=準々決勝
鹿児島実(鹿児島)5−4東海大相模(神奈川)

「あの夏、ほんの2週間くらい、いや一晩で、僕の人生は確実に変わりましたよ」

 後年のインタビューで、鹿児島実のエース、のち巨人で活躍する定岡正二が、そう言って笑った。

 1974年は定岡にとって3年夏となるが、2年夏に続き、2度目の甲子園だった。鹿児島大会決勝で絶対の優勝候補の鹿児島商に勝利しての出場。この時点では、定岡の存在は全国的に、ほぼ無名。甲子園入りし、球場の近くを歩いていても、誰も声をかけてはこなかったという。

 それが初戦(2回戦)、3回戦と1対0で2試合連続完封勝利を遂げ、少しずつ注目を集め始める。迎えた準々決勝の相手が銚子商(千葉)と並び、優勝候補に挙げられていた東海大相模だ。名将・原貢監督と1年生で「五番・サード」の原辰徳。親子鷹でも話題となっていた。

 1回裏、定岡は、いきなり原辰に2点タイムリーを打たれ、先制を許すも、続く2回表には、定岡自身の二塁打(2打点)もあって3点を奪い、逆転。以後はゼロが並ぶ投手戦となった。

 しかし9回裏、定岡は先頭の原辰のヒットから1点を失い、同点とされ、延長戦に突入する。鹿児島実が危なかったのは、12回表。二死二塁から原雅己の打球がセカンドの中村孝の後方へ。これを背走してキャッチするファインプレーで、無失点で切り抜けた。

 14回は互いに1点ずつを奪い、4対4。そして15回表、鹿児島実が再び1点を奪い、リード。その裏、定岡は最後の力を振り絞り、先頭打者を三振、続く、ここまで3安打、13回には敬遠もした原辰を二ゴロ、最後は山口宏を三振に打ち取り、ゲームセット。213球の熱投だった。

 この試合のテレビ視聴率は、なんと34パーセント。第4試合ということで最後はナイターとなった。当時は最終試合の試合時間が長くなるとNHKのテレビ中継がなくなったが、この試合の中継打ち切り後、抗議が殺到。翌年から延長でも中継が行われるようになったという。

準決勝はケガで途中交代


準決勝の防府商戦の3回、ホームに突入した際、右手首を捻挫した定岡


 鹿児島実は、翌15日に準決勝の防府商戦(山口)。先発した定岡は、3回に走者としてホームに滑り込んだ際、右手首を捻挫。その後も我慢して1イニングは投げたが、監督に言われ、交代。一度病院に行き、8回に戻ってきた。

 しかし、最後は鹿児島実のセンター・森元峻のエラーで1対2のサヨナラ負け。定岡は、泣きじゃくる森元の肩を抱き、慰めたが、「本当は僕も泣きたかったけど、先に泣かれるとね」と振り返った。

 冒頭の言葉のように、この甲子園で定岡の人生は一変する。宿舎に多くのファンが詰めかけ、街を歩いていても次々、声がかかり、握手を求められた。

 帰路もそうだ。鹿児島が近づくと、駅に止まるたびに大勢の人が集まり、ナインに歓声を送った。

「(降車する)西鹿児島駅に着いたときは、3000人くらいいました。僕らはみんなで『あれ、きょうなんか祭あったっけ』って言ってました。だって、行きの見送りは、家族や関係者だけでしたからね」

 まさに甲子園が生み出した“シンデレラスーリー”だった。

写真=BBM
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