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キセキの魔球

【キセキの魔球06】砕けた右腕。

 

2017年6月19日。大家友和は現役引退を発表した。日米を股にかけて活躍した右腕だが、もしナックルボールと出合っていなければ41歳まで野球を続けることはなかっただろう。どこまでも野球と愚直に向き合った大家とキセキの魔球を巡る物語──。

野球選手で見たことのない症例


エクスポズ時代、右腕に大ケガを負った大家(写真=BBM)


 事故が起こったのは、2004年6月10日、カンサスシティー・ロイヤルズの本拠地カウフマン・スタジアムで行われた対モントリオール・エクスポズ戦のダブルヘッダー2試合目だった。2対0とエクスポズのリードで迎えた3回裏、ロイヤルズの攻撃二死の場面、打順は2巡目に入り、二番打者カルロス・ベルトランが打席に入った。

 この日のエクスポズの先発は、大家友和。1打席目はレフトフライに打ち取り、2度目の対戦はフルカウントに追い込み、7球目を投じた。

 ベルトランが打った。

 打球は物凄い勢いで大家に向かって襲いかかった。一瞬の出来事に避ける間もない。打球は右手首を直撃。場内が凍りついた。打ったベルトランは一塁へ向かって走っていく。大家はその場に崩れ落ちるかと思われた。右腕は陥没していた。

 ところが何を思ったか、彼はおもむろに転がったボールに近づいていった。

「拾わなきゃ……」

 野球選手の性なのだろうか、子どものころから染み込んだ習性がこんなときにも顔を出す。だが凹んだ右腕には力が入らず、左手のグラブに右手を添えてボールをすくい上げ、そのまま下手投げで一塁へトスしようとした。だができなかった。

 手首の骨はバラバラに砕けていた。専門医は、野球選手の症例では見たことがないと言った。2日後、フロリダで緊急手術を受けた。観血的整復固定術、いわゆるORIFと呼ばれる術式で、皮膚を切開し、骨のズレを直して整復してから、挿入した金属のプレートをボルトなどを使って皮下で骨を直接固定するものだ。術後、患部の腫れがひどく、出血も続き、1週間の入院中に4度手術を重ねた。二の腕には約20センチの深い傷跡が残った。

 2004年、それはまさに彼がスターダムに上り詰める只中だった。

 2001年7月にボストン・レッドソックスからエクスポズに移籍すると、大リーグの先発として場数を踏み、渡米直後から着手していた2シームも精度を高め、翌2002年は開幕と同時に2シームを積極的に使っている。

 キャッチャーのマイケル・バレットは要所、要所で大家に2シームを要求した。

「トモの2シームは、調子がいいときはこのチームでいちばんいいね」と、バーネット。

 2002年は192.2イニングを投げて13勝8敗、防御率は3.18。2003年はさらにイニング数を伸ばし、199回、10勝12敗、防御率4.16と、2年連続2ケタ勝利を挙げた。2004年、事故が起こる直前の5月、5試合に先発して3勝0敗、防御率1.51の成績でエクスポズの月間MVPに選ばれている。

 すでに大家友和は押しも押されもせぬ本物のメジャー・リーガーになっていた。

「だったら2カ月で復帰してやる!」


 大家はチーム・ドクターに尋ねていた。

「復帰までどのくらいかかるでしょうか?」

「3カ月ってところかな」

 だが、彼はこの言葉を信じていない。シーズン絶望と言ったらきっと気落ちするだろうとドクターは考えたかもしれない。実際、ケガの深刻さからして大方のチーム関係者はシーズン中の復帰など期待していなかった。

───ふ〜ん、3カ月。だったら2カ月で復帰してやる!

 大家は早々に復帰計画を立てた。復帰時期から逆算してリハビリ計画を練っていく。もし8月中旬の復帰を想定すると、遅くとも8月頭にはピッチング開始、そのためには7月の半ばに最低キャッチボールをしていなければならない。だが、さすがにこの計画は無謀だった。リハビリ施設の受付では自分の名前さえ書くことができず、レストランではナイフを使ってステーキを切ることができないのだ。腕にはまったく力が入らず、手首はガチガチに固まっていた。

 修正案は3カ月後の9月中旬復帰。そのことを宣言したところでチーム関係者は誰も信じないだろう。だが、大家は本気である。それからは単調で苦しいリハビリの日々が続いた。指に意識を集中させて少しずつ動かしていく。手首をそっと曲げながら徐々に可動域を広げる。カルシウムの豊富な魚や乳製品をたくさん食べた。

 しばらくすると、周りの意識が変わっていった。

「こいつ、本気だ」

 ボールを握れるようになるまで1カ月かかった。本来ならマイナー・リーグで調整登板するのだが、傘下のマイナー・リーグはどこもシーズンを終えていた。練習登板でライナー性の当たりが出ると、反射的に体がビクッとしてしまう。ショートにボールが転がるだけで一瞬、ひるむ。自分では意識していないのに、体はあの衝撃を忘れていなかった。

とんでもない企て


大リーグのチーム削減計画によりエクスポズはナショナルズとなり、その後、大家はブリュワーズに移籍した(写真=Getty Images)


 9月15日、フロリダ・マーリンズ戦ダブルヘッダー2試合目、大家友和は先発でマウンドに上がり、3回68球を投げる。目指した3カ月ピッタリにメジャー復帰を果たしてみせた。

 半年後の2005年、フロリダでの春季キャンプ。大リーグのチーム削減計画に翻弄されたエクスポズは、この年からワシントン・ナショナルズになった。大家は、いつもの春と同じように競争の渦中にいた。ケガしたハンディを持ち込めるほど悠長な現場ではなかった。毎日が闘い。深い傷跡が残る腕が、彼にとっての新たな商売道具となっただけのことだ。ナショナルズのクラブハウスで、彼はケガのことを振り返った。

「ケガしたときも、悲壮感はなかったです。今の医学をもってしたらきっとまた投げられると信じていたし、僕は大リーグに帰って来るべきだと思いました。もしメジャーで投げられるレベルに戻らなかったとしたら、終わりでしょうね。簡単には辞めたくないけど、もし戻らなかったら、覚悟しなきゃいけないし。そんな甘い世界じゃない、ここは」

「周りは元どおりになることを100パーセントと、多分そう言うと思う。でも、あんまり僕はそこにはこだわってないんです。ちゃんとアウト取って、試合を成り立たせることが僕の仕事だから。感覚は悪くないです。変化球も前のとおり投げられているし、リハビリのおかげで手先が器用になって、変化球も良くなると思う。いやでもゆっくりキャッチボールしなければいけない時期があったんで、今まで投げなかったりとか、投げていてもそのボールの使い方だったり、変化をもたらせることも可能だと思うんです」

 走ることをやめないどころか、彼はとんでもないことを企てていた。30歳でパワーピッチャーを目指す、というのである。このとき28歳。

「半分冗談で、半分本気。そのくらいの気持ちで自分の体をもっともっと鍛えていきたい。30歳でパワーピッチャーに変身したら面白いなあって、あってもいいと思うんですよ、そういう発想」

 3カ月復帰の背景には、大リーガーとしての生き残りがかかっていた。

「去年のうちに投げなければどうにも僕を評価してもらえなかったと思う。ケガしたままのピッチャーとされるのがあんまりよく思えなかった。9月のうちにあれだけ投げたんだから、3月だったらこれだけ投げられるだろうと、自分のチームにも、他のチームにも思ってもらいたかった。もしかしたらこのチームを出ることになるかもしれないし……」

 2ケタ勝利の選手にも、安泰な場所なんてどこにもない。クラブハウスやフィールドの空気を嗅ぎ取ることで自分の立ち位置を探る。彼の予想どおりその4カ月後、ミルウォーキー・ブリュワーズにトレードされることになるのだ。

ナックルにもたらした影響


 それにしても、彼が急いだ復帰にリスクはなかったのだろうか。

「もしあるとするなら、腕が言うこと聞かないで、無理させて、肩やヒジに影響が出ることは考えられたけど、肩はきつかったことはきつかったんですけど、まあ、すぐ良くなったんで。投げられることを想定して体も作ってきたんで。急いだ影響は、腕以外のところを痛くしてしまったことですかね」

「よく、ケガして逆にプラスになったことは何ですかなんて言われますけど、プラスもなにも、ケガしていいことなんてないですよ。もしあるとしたら、これから証明できるのかもしれない、精神的に成長したとか、分からないですけど。毎度毎度、そう簡単には行かせてもらえないなあ。いろんな山があって、なかなか生きていて、ここまで人生、楽しい!」

 大家友和がナックルボールを投げるようになったのは、腕の骨折から8年後。いつだったか、彼は「やっぱり骨折ったのがあかんかったんかなあ」と言ったことがある。あのケガが、ナックルにどんな影響をもたらしていたのだろう。引退後に、彼はこう語っている。

「左と右とで、手首の曲がり方が違うので。手首がもっと曲がったら、ナックルがもっと投げやすかったかも、と思ったことはあります。手首の骨の動きのスムーズさはなくなっていてもストレスでもないし、そんなところで立ち止まっていられないですから、メジャーでできる限り投げる、と思ってましたから。プレートの重さを感じたことはありませんでした。違和感はあるけど、それなりに投げられていました。周りは心配して、調子の悪さはケガが原因じゃないかって考えたみたいですけど、僕の中ではそうは思っていなかった。もっとスムーズだったら、もっとこうだったらって思うけど、ギブアップするつもりなんてさらさらないし。肩を故障した2006年の中盤も、速い球出していたんでね、肉体的には、腕以外のところは悪くなかったんです。まあ、ジワジワきていたのかもしれないけれど。骨折ってなかったら、肩を故障してないかもしれないし」

 2004年の手首骨折が、その2年後、肩を痛めて故障者入りした引き金になっていたのだろうか。野球を職業に選んだ者なら誰しも、その腕がいつまでもつのか不安にかられる。自分で仮定した引退時期のラインが近づいたり、遠のいたりするのだろう。

「(骨を折ったとき)もしダメだったらなんてことは思いませんでした。それとともに、あのころもう一つ思っていたのは、アービトレーション(年俸調停)で給料も上がったころで、もし自分で納得できる何かが成し遂げられていたら、いつ辞めてもいいなあと少なからず思っていました。野球をしている以上、故障のリスクは常にあるわけで、でもまさか、あんなひどいボールが飛んでくるなんて想像してませんもの。あのあとも投げ続けられてラッキーでした。もしあれが頭とか顔に当たっていたら、それこそ命を失っていたかもしれない。当たったこと自体は不運だけれど、それが腕で運がよかったかもしれないです。骨折していなかったら、何かに満足して、辞める決断をしていたかもしれません。もしそうだったら、今ほど物事に対して深く理解できていなかったでしょうね」

<次回8月16日公開予定>

文=山森恵子
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