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プロ野球デキゴトロジー/8月20日

“ワキ役”川相が輝いた世界記録達成の日【2003年8月20日】

 

川相の送りバントは数の多さだけでなく、圧倒的な成功率を誇った


 プロ野球の歴史の中から、日付にこだわって「その日に何があったのか」紹介していく。今回は8月20日だ

 特にこの時期の「あるある話」だが、「最近、プロ野球の選手はバントが下手になったな。甲子園に出ている高校生のほうがうまいんじゃないか」と感じたことがあるだろう。

 送りバントの総数が大きく変わったわけではないし、全体のレベルというわけではないかもしれないが、かつては、バントの職人的選手がいて、相手守備陣がいくら警戒しようと、わずかな隙を突くように鮮やかなバントを決めた。

 その代表が1983年、ドラフト3位で巨人に入団した川相昌弘である。高校時代は投手で、プロ入り後、内野手転向。まずは守備固めで一軍に定着し、90年には初の規定打席で当時の日本記録58犠打、91年には66犠打でさらに更新。これは2001年、ヤクルト宮本慎也に抜かれるまで日本記録だった。

 バッティングが悪かったわけではないが、大砲ぞろいのチームの中で、体が小さく、器用な川相は自然と二番打者、そしてバントのサインが多くなった。バントは、常勝を義務付けられた巨人の中で、打者・川相が担った必然の役割であり、逆に言えば、生き残るための武器でもあった。

 2003年8月20日の横浜戦(東京ドーム)は、いぶし銀の“名ワキ役”川相が、プロで初めてスポットライトを浴びた日だ。当時38歳、若手時代同様、守備固め、そして、いわゆる“ピンチバンター”の役割がほとんどになっていた。

 巨人が2点をリードされた6回一死一塁だった。代打で川相の名がコールされると、満員の東京ドームが一気に沸く。

 横浜・ドミンゴが投じた2球目だった。いつものようにあっさりと送りバントを決め、川相はエディ・コリンズ(アスレチックスほか)が持っていたメジャーの犠打記録511を抜いた(当時はルールが違い、犠飛も犠打に含まれていたので、正確な犠打の数は分からない)。

「送りバントを決めた瞬間は、走りながら顔が笑ってしまいましたね。ただ、転がすのがやっとで、あまりいいバントではなかった。(走者の)二岡(智宏)がよく走ってくれました」

 川相は、その後も交代せず、7回にセカンド、8回にサード、9回にショートと守備位置を変えながら守った。当時の原辰徳監督の「名手と呼ばれた守備も見てほしい」という意図からだった。川相自身、「自分には守備があったからスタメンで試合に出ることができた。世界記録を達成したのも、そのおかげだと思います」と胸を張る。

 試合後はナインが胴上げ。その後、球場に来ていた家族から花束を贈られると、川相の目から涙がこぼれ落ちた。秀美夫人は、ずっと泣いたままだった。

写真=BBM
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