時代の流れが加速していく。
巨人のエースとして、常に華やかスポットライトを浴び続けた
沢村栄治だが、1938年(昭和13年)1月10日に入営後の情報は軍の機密もあって多くない。このシーズン、巨人からは
内堀保捕手、
筒井修内野手も応召したが、一方で春のシーズンから熊本工の
川上哲治、
吉原正喜、松山商の
千葉茂ら、のち「昭和13年組」と呼ばれる将来の中心選手たちが入り、活気づく。
日中戦争の激化で、プロ野球からも名古屋・
前田喜代士の戦死が伝えられたが、戦意高揚もあって、戦地での頼もしくも楽しげな(?)野球選手の様子が新聞、雑誌で掲載されるようになった。その中に沢村栄治初年兵が手りゅう弾投げで78メートルを投げ、連隊長から褒められたとの記事もあったという。
9月初旬、中国戦線から従軍記者による沢村の情報も伝わった。
すでに一等兵になっていた沢村は軽機関銃射手となっており、その記者に「歩くのやない。毎日毎日、機銃背負ってぬかるみを滑り込みや。そんでなあ、飯盒から蛙が飛び出すのやで」とユーモラスに日々を語っていたらしい。
もちろん、第一線は甘くはない。復帰後に沢村自身が明かしたのだが、戦闘の中で左手の手のひらを敵の弾丸が貫き、入院した時期もあったという。
除隊にも逸話が残る。
野球好きで知られた賀陽宮殿下が沢村の部隊に来たとき、すぐ連隊長に「沢村栄治はどこにいるか」と尋ねた。しかし、野球に興味がない連隊長は「沢村と言いますと」。すると殿下は「沢村を知らんのか。有名な野球選手だ。すぐ呼んで来い」と叱責。あわてて連隊長が「沢村」という男を探し、すでに上等兵になっていた沢村を呼び、殿下と沢村で、しばし野球談議に花を咲かせた……。
除隊が許されたのは、その1カ月後だった。正直、真偽は分からないが、野球ファン、関係者は、そんな物語に勇気づけられた。
40年4月9日に沢村は除隊。故郷・宇治山田に戻ると、すぐ巨人への復帰を声明した。沢村の背番号14を巨人は、ほかの選手に使用を許さず、復帰の報を聞き、ユ二フォームを新調して待ったという。
しかし、沢村はすぐに試合に登板しなかった。しなやかな筋肉が2年5カ月の軍隊生活で硬くなった。まずは野球にふさわしい肉体を取り戻す必要があったのだ。
<次回へ続く>
写真=BBM