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沢村栄治「栄光の伝説」/生誕100年記念企画その20

【沢村栄治 栄光の伝説(20)】最後のユ二フォーム、無念の戦死

 

肩もヒジもボロボロ


足を高々と上げる沢村のフォーム。ご存じのとおり、沢村賞は沢村の偉業を称えるためできたものだ


 最終章である。

 沢村栄治上等兵は、1941年10月、三重県津の第三十三連隊に入営した。新婚の夫人からは連日、隊へ山のような差し入れがあった。沢村だけでなく、ほかの兵隊にもという配慮で隊での沢村人気も高くなったという。11月15日の夜、突然、消えた。演習とだけ説明があり、夫人にも詳しい行先は明かされなかったが、あとで聞けば、名古屋港からフィリピンに向かい、出港。12月12日にはミンダナオ島に上陸したという。

 帰還し、除隊したのは、1年以上経った、43年1月だった。その後、上京した沢村は友人である鈴木惣太郎(日本野球連盟副理事、巨人軍顧問など歴任)宅を訪れ、ミンダナオ島での奮闘談を自ら地図を書きながら話した。敵軍に幾重にも取り囲まれ、九死に一生を得た話、現地在住の日本人との交流など、涙あり笑いありの話だったという。

 43年、巨人の藤本定義監督は勇退し、中島治康が選手兼任で監督。復帰した沢村は主将となった。当時、東京在住時は藤本定義氏の世話した中野のアパートで過ごし、食事はすべて藤本家ですましていた。

 しかし、グラウンドでの沢村は、もはや肩もヒジもボロボロだった。球がいかず、生命線だった制球力も失っていた。

 最後の登板は7月6日、西宮球場の阪神戦だ。初回二死の後、4連続四球。結局、3回5失点で降板し、同年勝ち星はなかった。試合後、うなだれる沢村に、中島監督は「打者になれや」と声をかけたという。沢村は当時では珍しい右投げ左打ちでバッティングも悪くなかった。

 以後は代打が続くが、10月24日、打者最後の試合もやってきた。やはり西宮球場の阪神戦。延長11回一死一、二塁。若き強打者、青田昇の打席だったが、中島監督は代打・沢村を告げた。

 沢村は、初球を打って平凡なファウルフライ。以後、選手・沢村の記録はない。

三度目の応召で……


 この年のオフから、選手たちは勤労奉仕として、あちこちで工場勤務を始めた。召集令状を受けないための策でもあった。沢村は関西にあった川西飛行機製作工場の職工となり、翼の鋲(びょう)を打つ仕事に回された。

 沢村自身、もはや投手での復帰はあきらめていたようだが、代打や守備固めでもいいから、できる限り巨人のユニフォームを着て、野球を続けたいと思っていた……。

 44年2月、巨人から選手契約しない、と伝えられた。憤ったが、鈴木の「巨人軍の沢村で終わるべきだ」の忠告に従い、引退を決めたという。その後、産業軍、南海軍、阪急軍から誘いがあり、南海のユニフォームを着ていたと断言する人もいるが、いずれにせよ、試合記録はない。家族には、巨人から解雇されたことは伝えなかったという。

 失意の沢村は、一度は鈴木と一緒に中国・上海で事業を起こす話に乗ったが、その後、重要産業に従事していないものはすべて徴用するというウワサもあって、「ワシは、事務をとることは不向きやけど、飛行機の鋲打ちはうまいもんやで。野球がやれねば職工がいい」と断った。

 しかし、その後、沢村は三度目の応召。日本野球も9月に休止した。

 44年12月2日、輸送船でフィリピンへ向かう途中、屋久島沖で沢村が乗船していた輸送船が、潜水艦の魚雷を受け、たちまち沈没した。戦死の報が実家に届くも、遺骨も、その死の様子を知る者もいなかった。まだ、27歳だった。

 戦後、父親は息子が慶大に進みたいのに、自身の経済的事情で中等学校を中退させ、巨人に入れさせたことを酒を飲むたび涙ながらに悔いたという。

「大卒なら3度も兵役に行かされることはなかったのに……」と。確かにそうかもしれない。ただ、そうであったとしても、あの戦争を沢村が生き延びたかどうかは誰も分からない。

 生誕100年、死去から73年……投球シーンを実際に見た人は、もうほとんどいないはずだが、いまもなお野球ファンの心に鮮やかに残る英雄である。

<了>

写真=BBM
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