プロ野球の歴史の中から、日付にこだわって「その日に何があったのか」紹介していく。今回は9月4日だ。
流浪のエース、スタルヒン。その生涯を説明するには1冊の本をもってしても足りない。
戦前は
巨人のエースとして活躍。戦後は古巣・巨人からの誘いを断り、戦前の巨人監督で、個人的にも敬愛していた恩師・藤本定義が監督だったパシフィックで球界に復帰し、以後も藤本の後を追うように球団を移る。
1954年、できたばかりの高橋ユニオンズへの移籍は初めての藤本離れだったが、これも「移籍金をもらって、これからの人生の足しにしなさい」という藤本の助言からだった。ジョークが好きで、社交的な男だったが、若い時期は、チーム内でもさまざまな嫌がらせを受けたという。それをかばってくれたのが藤本だった。
藤本への一途な敬愛は、ある意味、スタルヒンが隠し持つ、心の傷の深さゆえだったのかもしれない。
1955年は、スタルヒンが当時誰も到達してなかった通算300勝を達成したシーズンだ。8月16日に通算299勝を挙げた後、2度失敗。迎えた9月4日大映戦(西京極)で、3度目の挑戦をかけた。奇しくも大映の指揮官は藤本。スタルヒンは是が非でも恩師の前で決めたいと燃えた。
結果的にはシーズン最下位となるユニオンズは、この年だけトンボ鉛筆のネーミングライツを受け、トンボユニオンズと名乗っていたが、とにかく打てない、守れないチームだった。それでも「スタさんのために」と張り切り、2回に6点、4回には1点を追加と、この日は別のチームのようによく打った。
すでに往年の球威のなかったスタルヒンは、マウンドでガムをかみながら長いインターバルでのらりくらりと投げ、4回に1点、6回に3点を許したが、なんとか9回を完投し、300勝を達成する。
「調子は良かったけど、5回ごろからは気力。バックがよくもり立ててくれたよ」(スタルヒン)
この年の7勝21敗で引退を決めたスタルヒン。実は42勝から一度、40勝に直されていた39年の記録が、62年の記録再々見直しで42勝に戻り、真の300勝は7月28日の近鉄戦となったが、57年1月12日に交通事故で死んだスタルヒンが、その変更を知ることはなかった。
写真=BBM