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カープアカデミー物語

【カープアカデミー物語09】“野生児”ケサダのポスティング。そして新たなる時代の到来

 

1990年、広島が選手育成のためにドミニカ共和国に開校したカープアカデミー。後にメジャーで活躍したソリアーノら多くの選手を輩出した。今年、育成から支配下に昇格したバティスタメヒアも同アカデミーの出身で、再び注目を集めている。連載「カープアカデミー物語」で、その歴史をたどる――。

ポテンシャルが高いメヒア


7月20日に支配下登録されたメヒア


 2017年のフレッシュ・オールスターで、全ウエスタンの四番に座った広島のアレハンドロ・メヒア。このとき初めて映像でプレーシーンを見たという人も多かったのでないか。カープアカデミー出身で、その時点ではウエスタンの首位打者&打点王(9月6日現在は首位打者のみ)。試合前の打撃練習を見た関係者は、すさまじい打球に「子どもの中の大人。あれは反則じゃないか」と思ったという。

 この時点では育成契約で背番号は146だったが、7月20日、6年間の長期契約を結び、支配下登録選手に。背番号は96となり、その後、一軍初出場も果たしている。

 日本球界に適応できそうな外国人を獲るのではなく、日本球界に適応できる外国人選手を自前で育てる。

 1990年、いかにも市民球団カープらしい哲学に基づき、ドミニカ共和国に誕生したカープアカデミーは、これまで紹介してきたように、契約にまつわる、さまざまなトラブルやあり方の試行錯誤を経て、ようやく本当の意味で、定着しようとしているのかもしれない。

 おそらく、その最初のゴールであり、新スタートが、バティスタ、メヒアの一軍、さらにクリーンアップ定着となるはずだ。

猛練習で課題を克服


小柄ながら筋肉隆々。パワフルなバッティングが持ち味だったケサダ


 今回は連載の最後として、アレハンドロ・ケサダの例を紹介する。

 ケサダが全国その名をとどろかせたのが、1998年7月21日、富山で行われた「コナミ・フレッシュオールスター」(当時)だった。1本塁打を含む4打数2安打の活躍で、外国人選手では初めてのMVPと賞金100万円をもらった。

 賞金の使い道を聞かれ「ドミニカにいる家族のため。それと自分だけの家を建てるのが夢なんだ。それにも使いたい」と目を輝かせたケサダ。7月9日に20歳となったばかりの若者だが、毎月の実家への仕送りを欠かさず、ギラギラとしたハングリーさも隠さないタイプだった。

 ドミニカ共和国の農村で7人兄弟の5番目として生まれ、10歳のころから父親を手伝い、畑仕事をしていた。野球をしていなかったわけではないが、空き地で楽しむ程度で、本格的に始めたのは、この2年半ほど前、96年3月、カープアカデミーに入ってからだった。

 3度目の来日となった98年の春季キャンプで正式契約。契約金なし、年俸420万円(推定)だったが、「野球ができるのが楽しい。毎日、毎日プレーしたい。うまくなりたいし、いつも100パーセントでプレーしたいから」と気にする様子はなかった。

 173センチと小柄ながらパワーは十分。主に外野手で、遠投は130メートルと抜群の身体能力を誇った。首脳陣は「今年は二軍で鍛える。2、3年後に一軍で戦力になればいい」と話していたが、猛練習で課題と言われた変化球打ちを克服。6月に一軍初昇格すると、初出場の6月20日、函館の横浜戦で、いきなり2打数2安打と結果を出した。

 その後は右の代打の切り札(対左投手。ケサダは右打ち)と呼ばれる存在ともなり、最終的には34試合の出場で打率.311、3本塁打、9打点。翌シーズン以降の活躍が大いに期待されたが、前回でも触れたとおりシーズン終了後、メジャー行きを希望し、結局、日本初のポスティングでMLBレッズへ。ただし、メジャーでの出場はないまま引退となった。

 日本語の練習法は「カラオケ」だった。「歌っていくうちにうまくなるし、気分もよくなる」と語り、仲のよかったペレスとともに「(バスケットの)ロッドマンのように」と髪を金髪に染めるなど、ちょっとヤンチャで陽気な若者だった。

 その後、施設を縮小させ、来日する選手も小粒になったが、2010年代になってふたたび組織を整備拡張した。より日本向きの選手を発掘し、じっくり育て、モノになりそうなら、それなりにおカネも使って長期契約を結ぶ。たくさんの痛い経験を踏まえ、「カープアカデミー」は新たなる時代をスタートさせようとしている。

<了>

写真=BBM
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