中日の森野将彦が引退を表明した。2017年9月22日現在、通算1581安打。2000年代の黄金時代を支えたユーティリティーだ。今回は9月24日、ナゴヤドームでの引退試合まで、森野の野球人生を何度かに分け、紹介していきたい。 冷や汗の思い出
最も思い出深いという背番号『31』時代
森野と言えば、背番号である。入団時の「7」から始まり(1997〜99途)、「8」(99途〜2001途)、「16」(2001途〜03)、「8」(04〜05)、「31」(06〜09)、「30」(10〜13)、「7」(14〜)と驚くほど頻繁に変わっている。
ただ、「それだけこだわっていた」とか「ゲンを担いで」ではない。
「7」から「8」は、韓国時代と同じ背番号を希望した
李鍾範との交代。「8」から「16」は横浜から
波留敏夫が加入した際、「31」から「30」は、球団から「3」を打診され、断ったが、すでに「31」がほかの選手に決まっていたからだ。むしろ「こだわりのなさから来た」と言えなくもない。
「一番思い出に残っているのはレギュラーを取った『31』。自分から欲しいと言ったのが最後の『7』だけですが、どの番号にも愛着はありますよ。『3』については自分の中では時期尚早。別の人の番号で自分が背負うものではないと。立浪(和義)さんの背中にあるものだと思っていました」
その言葉どおり、「『31』の初年度」、チームが2年ぶりの優勝を飾った2006年が森野のブレークイヤーとなる。オープン戦での負傷があったものの、復帰後、最初はセカンド、その後、サードの定位置をつかむ。待望の“立浪超え”だ。同年は初めて規定打席に達し、打率.280をマークしている。
いつもクールな森野が冷や汗をたっぷりかいたのが、この年の9月16日だった。先輩・
山本昌がノーヒットノーランを達成した試合だが、その際、唯一許した走者が三塁・森野のエラーからだった。
「伏線があったんですよ。僕は三塁線側に守りたかったのに、ベンチからは三遊間に寄れと。そっちじゃないのになあって思っていて、実際三塁線に飛んできてポロリと。4回の先頭打者だったんで、正直そのときは、そこまで考えなかったんですけどねえ。その後、ヒットも出ない、四球も出ない。ウソでしょって(笑)。いまではいい思い出ですけどね」
ベースを踏まなきゃ……
翌07年が打率.294、18本塁打、97打点。森野は「初めて規定打席に到達して、また放してしまうのか。そこでこれだけの成績を残せたのは大きかったです。自信になりましたね」と振り返る。日本シリーズでは優秀選手賞を手にした。
さらに08年には北京オリンピックに出場したことで出場試合は少ないが、初の打率3割超えでリーグ5位の.321をマーク(特例処置)。チームを代表するバッターに成長した。
迎えた09年は序盤こそ打撃不振に苦しんだが、グングン調子を上げ、打点を109まで積み上げた。打点王は同僚のブランコで110、つまり、あと1打点でタイトルだ。
「正直、タイトルは欲しかったですね。最終戦で、僕はその前にタイムリーで109打点を挙げてブランコは108だった。その後、ブランコは、僕が塁にいて2ラン。一瞬考えましたよ。僕がここでベースを踏まなかったらどうなるのかって(笑)」
個人記録に淡泊な森野が、ほんの少しだけ揺れた瞬間だったようだ。
<次回に続く>
写真=BBM