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ドラフト回顧録

【ドラフト回顧録】東大プロ野球物語

 

東大野球部からプロ野球の扉を叩いたのは1919年の創部以来、投手のみ5人だけ。しかし、今秋その系譜に新たな1ページが加えられそうだ。史上最強の赤門左腕と評価をされるドラフト候補、宮台康平である。ここではから東大を経てプロ入りした投手たちの大いなる挑戦とその意味を探る。

宮台の秋の初登板はまずまずの投球


大学最後のシーズンを迎える宮台。左肩痛からの完全復活に懸ける


 私事になるが、東京六大学野球のこの秋のリーグ戦で、六大学野球100シーズン連続観戦となった。1968年から足かけ50年、よくまあこれだけ神宮球場に通い続けたものだと思う。

 このテーマに沿って言えば、50年前と比べて東大の各段に進歩したところは、その守備力である。とくに内野守備の向上が著しい。50年前なら、早大・谷沢健一荒川堯といった強打者の打球が内野手を襲うと思わず目をつぶったものだ。ところが、いまの東大の内野手はグラブさばきは軽快、体も大きく強肩。まず安心して見ていられる(人工芝のおかげもあるが……)。

 これに比べて進歩していない、むしろ退歩しているのでは、と感じられるのが投手力だ。筆者が初めて生で見た東大のエースは橘谷健(西高)。神宮の両翼が狭くなったり、他校に田淵幸一山本浩二(法大)、高田繁(明大)、早大には先の2人と強打者がひしめいていたことでなかなか勝てなかったが、長い腕から遅れて出てくるボールは、タイミングを取りにくく、バックのいい社会人野球では大活躍。1970年の都市対抗で川崎重工から三菱重工神戸に補強されて準優勝投手になっている(優勝したのは大昭和製紙で、橘谷さんに投げ勝ったのが早大出の安田猛投手)。橘谷さんが、いま神宮のマウンドに立ったらシーズン4勝ぐらいは軽そうだ。こういうレベルが、一つも二つも上の野球の世界でも活躍できる投手がその後の東大にはいなくなってしまった。

 元法大監督で、侍ジャパンのGM的な立場(強化本部長)に就任している山中正竹さんは「君が100シーズンなら、僕は104シーズンだぜ、ハハハ」と自慢する。山中さんは筆者より2学年上の人だから、プラス2年というワケだ(もっとも、66年から69年までは、観戦ではなく、神宮のマウンドに仁王立ちする大主役だったが)。その山中さんが、今秋のドラフトで注目される東大の150キロ左腕・宮台康平とそのフォームに関していろいろ話をしたという。詳しいことは明かしてくれなかったが、筆者も故障して以後のフォームが気になっていた。左腕をしっかり引かずに、すぐに立てて、ヒョコッと投げてしまう、そんな感じになっていた。巨人桑田真澄投手の右ヒジを痛めて以後のフォームを思わせた。

 で、9月9日の対立大1回戦を注目したのだが、3番手で登板した宮台は、まずまずだった。ヒョコッという感じはなく、球速も140キロ台中盤をマークしていた。期待して秋のシーズンを見守りたい。

大企業をあえて選ばぬ意志


東大出身のプロ野球選手となった新治はプロ1年目で5勝をマーク


 宮台にアドバイスしたいのは、もしプロでやりたいのなら、東大出プロ第1号の新治伸治投手のバリアーを次々とブチ破る強固な意志を見習ってほしい、これだ。65年の大洋(現DeNA)入団だが、新治は東大野球部からの定番コースで日本興業銀行(現みずほフィナンシャルグループ)入行が内定していた。まず、これを蹴ったことにビックリ。プロを目指すとなったら東大野球部OBが「やめろ!!」と入れ替わり立ち替わりやってきた。

 今年野球殿堂入りした六大学野球を長く取材した元毎日新聞の鈴木美嶺さんもその1人。「まあ、当時の僕は日本のプロはまともな世界ではないと、先入観で固まっていたからねえ」とのちに苦笑していた。朝日新聞社長で、のち日本学生野球協会会長の広岡知男さん(94年野球殿堂入り)も「やめろ!!」の1人だった。こんな重鎮たちに責め立てられても「プロでやります!」。このド根性があってこそのプロ入りだった。大洋で88試合もマウンドにのぼり、通算9勝8敗、勝ち越しているから大したものだ。

「初勝利(65年7月25日、対広島)の試合は、三原(脩)監督のおかげ。あと一死で勝ち星がつく場面。二死二、三塁。カウントは1ボール2ストライク。三原さんはここで絶対打たれない策を取ってくれた。とにかくわざとボールを2つ投げろと言う。エ〜!? ですよ。で3−2にしてから、もう敬遠という指示をわざと打者と広島ベンチに分かるように出した。内野手もダラ〜ッとした感じになる。そこへド真ん中のストライク。打者はだまされてもう打つ気がないから見逃しますよ。三振。監督というのはすごいことをやるものです」

 新治はこれだけでプロに入った甲斐があったと思った。

プロで本塁打も放った井手


2年目に投手から打者に転向した井手


 新治の次にプロ入りした投手は井手竣(新宿高)。こちらもプロ入りは反対された。そりゃそうだろう。文科系学生の希望する就職先のナンバーワンである三菱商事の内定を蹴ろうというのだから。それでも66年の二次ドラフト3位指名。67年に中日の一員となった。

 これまで東大から5人の投手がプロ入りしているが、勝利投手となったのは先の新治と井手の2人だけ。やはり、昔の東大エースは力があったのである。井手は東大時代4勝だったが、4年春に慶大に2勝、秋は明大1回戦で完封(2対0)。明大戦ではあの高田繁を4−0に抑え込んでいる。

「プロでもかなり……」の期待を抱かせたのだが、勝ち星は1年目の1勝のみ。それが9月10日の対大洋戦(6対4)。4回途中からの登板だったが、大洋・三原監督は新治を送り出し、史上初の東大出同士の投げ合いが実現した。まあ、昔の監督は粋なはからいをしたものである。井手は2年目から打者に転向し、73年5月5日の対巨人戦で高橋一三から決勝ホームランを放っている(6対5)。

 ここまでの2人の投手にはプロでもドラマがあったが、他の3人は残念ながらプロでの実績はほとんどない。ロッテに92年にドラフト8位で入団した小林至(多摩高)は一軍登板なし。東大でも勝ち星はなかったから、さぞや無念だったろう。ちなみに民進党の政調会長だった階猛(盛岡一高)は同期の投手。こちらもとうとう勝ち星は挙げられなかった。

 東大時代の実績は一番(8勝)と言ってよい遠藤良平(筑波大付高)は日本ハムにドラフト7位で00年に入団したが、球威不足でわずか1試合2球の登板で終わった。筆者が大いに期待した松家卓弘(高松高)は150キロのスピードを誇ったが、やはり勝てなかった。ドラフト9位で2005年横浜(現DeNA)入団、10年に日本ハム移籍。東大出投手では唯一の両リーグで投げた投手に。

 さて、宮台はどんな進路を選ぶのか――。

(文中一部敬称略)

文=大内隆雄 写真=BBM
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