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石田雄太の閃球眼

【石田雄太の閃球眼】好きなことが仕事になる日

 

神宮のマウンドで投げる慶大時代の志村亮さん


 今年もドラフトの季節がやってきた。どこのチームでもいいからと名前が呼ばれるのを待ち焦がれている学生もいれば、心の中に秘めたあこがれのチームから指名されるのを信じて待つ学生もいる。

「ドラフトは野球選手にとっての就職活動」と言ったのは、桑田真澄さん(元パイレーツ)だ。だから思うに任せないのも仕方がないと考え、高校生なりに割り切ろうとしていたのだという。ただドラフトが学生の就職活動と違うのは、トップの評価を受けた学生に就職先を選ぶ自由がないというところだ。業界内で決めたルールに基づいて、クジを引き当てたところ以外の球団には入団交渉を自粛されてしまうわけで、学生からすればずいぶん酷な話である。なまじトップの評価を受けてしまったせいで、行きたくない球団から指名されてしまうという、矛盾――。

 そのことへの対抗策として、桑田さんは「巨人が指名してくれたらプロ、それ以外からの指名だったら早稲田大学へ行く」と心の中で決めて、運命の日を待った。それをほかの誰にも言わなかったこと、チームメートの清原和博さんが巨人入りを熱望していたこと、さらにはPL学園の“KK”という存在があまりに大き過ぎたことから想像もしない騒動になってしまったのだが、トップの評価を受けた1人の高校生が自らの夢を叶えようとプロ野球という巨大な業界に対抗する手段は、ほかにはなかったのかもしれない。

「野球は夢、仕事は現実」と言ったのは、志村亮さん(慶大−三井不動産)だった。志村さんの名前はドラフトで挙がったことはない。なぜなら彼は、早々にプロ入り拒否を打ち出していたからだ。しかも志村さんは「野球は大学まで」だと言って、三井不動産への就職を決めていた。大学通算で31勝17敗、防御率1.89という数字を叩き出した志村さんは、即戦力の左腕としてドラフト1位間違いなしの評価を受けていた。そんな大学生が、野球をやめて企業に就職しようとするなんて話はそれまで聞いたことがなかった。世はバブルに沸いた昭和から平成への過渡期。プロ野球選手ではなくビジネスマンの道を選んだ志村さんの選択は、当時、注目を集めた。

 志村さんは「僕にとっての野球は夢だったけど、ある時期からプロ野球選手になることは夢の続きじゃなくなっていた」と話していた。プロ野球選手が夢、ビジネスマンが現実という話ではなく、野球は夢で、仕事は現実――これが志村さんの価値観だった。プロ野球選手として野球を仕事にした途端、好きだった野球が現実になってしまう。そんな危機感を志村さんは大学生の時点で、すでに持っていたというのである。

「ドラフトという言葉は頭の中にまったく存在してなかった」と言ったのはホークスの川崎宗則である。甲子園とは無縁の鹿児島工高にいた川崎は、ドラフトという言葉は同じ鹿児島の強豪校、鹿児島実高や樟南高のメンバーのためにある言葉だと信じて疑ってなかったのだという。川崎はこう言っていた。

「よく『そんなはずはない、プロを目指してきた高校生の名前がドラフト前にスポーツ新聞に出て、期待しないわけがないよ』って言われるけど、ドラフト当日もドキドキなんかしていない。普通に練習してました」

 ドラフトで名前が挙がった直後、グラウンドで練習していた川崎のもとへ「ダイエーの4位だ、やったな」と監督が泣きながら抱きついてきたのだそうだ。しかしそのときの川崎を包んだ感情は、喜びではなく、恐怖だった。

「自信がないんだもん。強い高校にいたわけでもないし、何を評価されたのかも分からない。そんな選手がいきなりドラフトにかかっても、不安しかないよ」

 近所の人が集まり、お祝いムードいっぱいの自宅に戻った川崎は、だから1人、トレーニングに励んだ。プロの世界に対する恐怖を紛らわせるためには体を動かすしかなかったのである。

 ドラフトは、野球と純粋に向き合ってきた学生にとって“好きなことが仕事になる”日だ。これからの彼らは、好きなことを仕事にできた幸せとつらさを、ともに味わうことになる。つまりこの日は、好きでやってきた野球人生のゴールであると同時に、仕事としての野球人生が始まる日でもあるのだ。その自覚を持てるかどうかがプロとしての第一歩に差をつける――そんな気がしてならない。

文=石田雄太 写真=BBM
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