試合後、杉下はベンチに座り込み、しばらく立ち上がることができなかった
プロ野球の歴史の中から、日付にこだわって「その日に何があったのか」紹介していく。今回は11月7日だ。
1954年、
巨人の4連覇を阻止し、初のリーグ優勝を果たした
中日は日本シリーズで、こちらも初優勝だった西鉄ライオンズ(現
西武)と対戦した。
中日快進撃の原動力は2つある。1つは、魔球フォークボールを操る
杉下茂。この年の成績は32勝12敗、防御率1.39と圧巻だ。
そして、もう1つが人情監督と言われた天知俊一監督の存在だ。選手たちは「天知さんを日本一の監督にする!」と一丸となり、栄冠をつかんだ。
日本シリーズでも杉下の力投もあって中日球場(ナゴヤ球場)での1、2戦は連勝。敵地・平和台球場に舞台を移してから3、4戦と連敗したが、第5戦では杉下が完投で3勝2敗とし、日本一に王手をかけた。
名古屋に戻った第6戦前日、親会社の重役が天知監督に「あすは、お世話になった人たちもたくさん見に来る。杉下を必ず投げさせてくれ」と言ったらしいが、天知監督はシーズン中からの疲労がたまっていた杉下の疲労を考え、「休ませます」ときっぱり断った。
第6戦は5回まで中日が1対0でリード。しかし6回表に投手陣が崩れ、3失点。客席は「杉下を出せ!」と騒ぎ出したが、天知監督は使わず、試合は1対4で逆転負けとなった。試合後の球場は騒然となり、「なんで杉下を使わなかったんだ、八百長するな」と味方ファンにヤジられ、親会社の重役にも同じようなことを言われたようだ。
そして11月7日、第7戦はその杉下が先発し、1対0で完封勝ち。疲労のため握力が落ち、大きく落ちるフォークを投げられなかったことで、あえて浅い握りのフォークをカーブ代わりに使ったのがケガの功名となり、うまく西鉄の打者のタイミングを外したという。
試合後、選手たちは、みな涙ながらに天知を胴上げ。マスコミは「涙の日本一」と称えた。
もちろん、それは間違いではないのだが、のちの記事で天知は「自分の涙だけは違っていた」と振り返った。
「うれしさというより、八百長だと言われた悔しさがあった。野球人をバカにするなと。だから勝った途端に涙が出た」
天知は、この年限りで監督を退任。人情家であり、かつ頑固一徹の男でもあった。
写真=BBM