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キセキの魔球

【キセキの魔球21】ついにシャボン玉のように浮き上がった。ナックル開眼!

 

2017年6月19日。大家友和は現役引退を発表した。日米を股にかけて活躍した右腕だが、もしナックルボールと出合っていなければ41歳まで野球を続けることはなかっただろう。どこまでも野球と愚直に向き合った大家とキセキの魔球を巡る物語――。

「ナックルボールなんて誰も信じない」


ウェイクフィールドは、先発、中継ぎ、抑えとどんな役回りも任すことのできる稀有なナックルボーラーだった(写真=Getty Images)


 2012年春、ニューヨークで先行公開された映画に『knuckleball!』というドキュメンタリーがある。2011年、MLBで唯一の現役ナックルボーラーだったティム・ウェイクフィールドとR.A.ディッキー、この二人の活躍を軸に、彼らの魔球との取り組みやその心情に迫り、さらにナックルボーラー同士の深い絆にも触れ、その独特の世界観を浮き彫りにしている。2011年はウェイクフィールドが200勝目を挙げて現役最後を飾った年であり、2012年秋に映画が全米公開された直後、ディッキーは歴代ナックルボーラーとして唯一、サイ・ヤング賞を受賞している。

 映画の中で際立つフレーズの一つに次のような言葉があった。

「Nobody trusts knuckleball(ナックルボールなんて誰も信じない)」

 孤立するナックルボーラーの立場を如実に表している。これには二つの側面がある。一つは、自分のナックルボールを信頼してもらえないナックルボーラー側の嘆きであり、そしてもう一方がナックルボーラーを抱えるチームや監督、コーチたちが抱くナックルボールへのジレンマや歯がゆさ、あるいは扱いにくさから吐き出される本音である。

 ディッキーは、彼のナックルボールが未完の時代、自分の投げる球への信頼度が揺らいだとき、ウェイクフィールドにこう尋ねている。

「登板の日、今日のナックルはたぶんまったくダメそうだと疑ったことはありますか?」

 するとウェイクフィールドは答えた。

「いや、一度たりともない」

 そう言い切れるウェイクフィールドの自信が少し恐ろしくもあり、そしてうらやましかったとディッキーは語っている。

 つまり本物のナックルボーラーとは、たとえ周りがナックルボールに疑いを持ったとしても、自分だけはどんなときも自分の投げ込む球を信じきる、その心構えで戦える者のことだ。その域に達したとき、「Nobody trusts knuckleball」という言葉の意味合いは変化する。少なくとも投げ手は信じない側から抜け出しているからだ。周りがその球を信用するかしないかはもはや問題ではないのだ。そんな邪念に阻まれることなく、ひたすら究極の魔球を求めてこそ本物のナックルボーラーの姿である。

ディッキーはナックルボーラーとしての極意を大家に授けた


R.A.ディッキーの投げる球は怒りのナックル。力強く、自信に満ちあふれている(写真=Getty Images)


 2014年春、トロント・ブルージェイズのメジャーキャンプに招待された大家友和は、約2週間、ディッキーと同じフィールドで汗を流した。

「なんでも聞いてくれて構わないから」

 と、ディッキーは大家に言った。フィールドで、ナックルの握りでつかんだ白球を顔の前に掲げ、大家にその握りを見せている。指の関節を軽く折り曲げ、自分もナックルの握りをしてみる大家。

「追い風のときはさらに力強く投げるんだ」

「あえて高めを狙って投げ込むこともある」

 ディッキーはナックルボーラーとしての極意を大家に授けた。

 ブルージェイズは当初、大家を2Aに置いてナックルの成長を見守りたいと言っていた。しかしそれはとんだ思わせぶりで、大家はキャンプ終盤にブルージェイズから放り出されてしまう。でも、彼は日本へは帰らなかった。

 彼のエージェントがアメリカの独立リーグのチームから話があると持ちかけたとき、大家はできたら20時間、返事を待ってほしいと言っている。ブルージェイズをクビになってからも彼は毎日トレーニングを続けていた。滞在先のアパートにはジムがあり、そこで汗を流し、近くの公園で見つけたバッティング用ネットに向かってナックルを投げ込み、持ち玉が錆びつかないようにちゃんと手入れをしていた。体は鈍っていない。あとは気持ちの問題だった。これまで数え切れないほどの修羅場を乗り越えてきたが、さすがに今回だけは相当に傷ついてしまったのだ。

 大家がナックルボールを投げ始めたときから彼と一緒に歩んできた者たちには、日本では誰も成し遂げたことのない大それたことに挑戦しているという自負があっただろう。彼のエージェントしかり、そして彼のナックルを5年間捕球し続け、最後にはキャッチボールの返球をナックルで返すようになる野球部の後輩もそうだった。そして彼らには共通する別の認識があったのもまた確かである。1年間、日本の独立リーグで経験を積んだナックルボールは、より高いレベルの環境で投げ込まれる必要があった。しかし、日本でその環境を見つけるのは難しい。どんなにナックルの精度が上がっても、NPBの二軍で育ててみたらどうかという話に発展しないことを彼らは知っていた。もしその壁をいつか打ち破るとしても、まずはアメリカで結果を出さなければならなかった。日本でナックルボーラーが認知されるためにわざわざ遠回りする必要があったのだ。

アメリカ最強の独立リーグでナックルを鍛錬する


ブリッジポート・ブルーフィッシュに所属した最も有名な一人が地元出身のアダム・グリーンバーグだ(写真=Getty Images)


 大家が所属することになったのは、アメリカ独立リーグの中では最もレベルが高いとされるアトランティック・リーグに加盟する、ブリッジポート・ブルーフィッシュというチームだった。ブリッジポートは、NYマンハッタンから北に100キロ離れた海沿いの町で、コネチカット州最大の都市である。

 アトランティック・リーグは1998年に設立され、アメリカ北東部7チームと、テキサス州の1チームによる合計8チームで成り立っている。通常の独立リーグよりもシーズンが長く、年間試合数は日本のNPBに匹敵する140試合が組まれている。これまでの約20年間で送り出したメジャー・リーガーは延べ900人、監督やコーチは50人。メジャー・デビューを果たした者だけでなく、返り咲きを目指す選手も多くいる。リーグの目標と存在意義は、一人でも多くのメジャー・リーガーを輩出することであり、各チームは所属選手の所有権をメジャー球団に譲渡することで経済的な見返りを受けている。かつてMLB幹部だったリック・ホワイトをリーグのプレジデントに迎えてからMLBとの連携はさらに強固なものとなり、2015年にはアトランティック・リーグがMLBへ選手を送り込む正式機関であることが文書化されている。

 ブリッジポート・ブルーフィッシュに所属した最も有名な一人が地元出身のアダム・グリーンバーグという選手だった。2005年7月9日、シカゴ・カブス傘下のマイナー選手だった24歳のグリーンバーグは、その日の対マイアミ・マーリンズ戦9回にピンチヒッターとしてメジャー・デビューを果たした。しかし、打席に立って投じられた第1球目の92マイルの速球が彼の後頭部を直撃。彼はその場に崩れ落ち、メジャーでの打席はたったその1球で終わってしまう。

 その後、何年間も彼は後遺症に苦しみ、複数の球団のマイナーでメジャー復帰を目指すが叶わず、数年後にたどり着いたのが地元のブリッジポートだった。ブルーフィッシュでは約4年間プレーした。そして2012年10月2日、7年前の事故の対戦相手だったマイアミ・マーリンズが31歳になったグリーンバーグと1日限定約3000ドルで契約することになり、グリーンバーグの7年ぶりのメジャー復帰が実現した。試合は対ニューヨーク・メッツ戦。打席に立ったグリーンバーグと対峙したのは、なんとR.A.ディッキーだった。ディッキーが投じたのはわずか3球。真剣勝負のナックルボールで三振に打ち取っている。

「それ(真剣勝負)が彼に対する礼儀だと思います」とディッキーは語り、アダム・グリーンバーグはこの打席を最後に、引退を表明した。

大家のナックルが次の段階へ


ブルペンでの投げ込みを見守るピッチングコーチ。大家のナックルの出力が上がったことを評価していた(写真=内ヶ崎誠之助)


 大家が加入したときのブリッジポートの監督は、80年代に福岡ダイエーホークスで活躍したウィリー・アップショーだった。

「このチームには、日本や韓国でプレーしたがっている選手が大勢いる」と、アップショーは言った。独立リーグとは、アメリカでも日本でも、ここで結果を残し、いつかはここを脱出したい、そう思っている選手の溜まり場だった。

 大家は二つの目標を掲げている。数字として結果を残しながら、ナックルボールの精度を高め、チャンスをうかがう。言葉では簡単そうに聞こえるが、これが非常に難しい。たとえば好投して数字が出たとしても、そこに満足感を見出すことはできない。

「あのまま投げていてもしょうがないんです。僕は次のステップへ行かなければならないんです!」

 実戦でナックルの精度を高めるには、チームの理解が必要だった。とりわけナックルを捕球するキャッチャーとの関係性は非常に大事だった。たとえばランナーを出塁させたとする。球速の緩いナックルは走られやすいという概念から、キャッチャーはナックルを避けて別の球を要求してくる。もし盗塁を許せば、自分の汚点になるからだ。しかし、勝負どころで投げ込まなければいつまでたってもナックルは育たない。だから大家は首を振る。そうは言っても首を振り過ぎてもいけないという気遣いも働く。ナックル以外の球をどのタイミングで挟み込むかは非常に大事なのだ。

 2014年のシーズン、同じアトランティック・リーグ加盟のランカスター・バーンストーマーズに3人の日本選手が所属していた。元ロッテ渡辺俊介阪神日本ハムで活躍した坪井智哉、そしてヤクルトオリックスでプレーした梶本勇介。梶本は、対ブリッジポート戦で大家の投げるナックルボールと対戦している。梶本は早いカウントから打ちにいき、ヒットを打った。

「引きつけてから打ってやろうと思うと、その前に(球が)落ちてしまうので、わざと(ナックルが)曲がる前に打ってやろうと、ポイントを前に持ってきました。それでも先っぽに当たってポテンヒットだったんですけれど。(早いカウントで打つことが多かったのは)追い込まれると(ナックルボールは)ややこしいんで」

 梶本はそれまで大家と3試合対戦している。その日の天候や湿度、風向きによってナックルも微妙に変わってくるのではないか。

「それを考えたら絶対に打てないです。ものすごい揺れ方するもんだと思って打席に立っているので」

 無回転のボールだということは、打者にははっきり見えるのだろうか。

「球は顔ぐらいの高さで入ってきます。それからストンと落ちて、ミットに収まるときにはストライクゾーンに入っていますから」

 このころ、大家の投げ込むナックルボールは次の段階に入っていた。それまでは無回転ボールをただ放り込むだけだった印象が、ピッチングとしてちゃんと成立するようになったのだ。ディッキーの投げ込むナックルは他のナックルボーラーと比べておよそ10マイルも速く、鋭い。大家も速いナックルを目指して練習を重ねると、ある日、2本の指でボールを押し出す絶妙な感覚を得たのだ。最後まで指を残す感覚。すると放物線が変わった。それまでふわっとした弧を描き、ポトンと落ちていた軌道が、ホームプレートまでひたすら伸びていくような直線的な軌道へと進化したのだ。落下を描くナックルは打たれる。理想は手元で上へホップする感じだ。ナックルボールの表現として、まるでシャボン玉のように浮き上がると言われることがある。大家の球もようやくその域にたどり着いた。まるでシャボン玉のように浮き上がり、打者のバットが空を切るようになったのだ。

 そして、彼は目指した。ディッキーの言っていた「あえて高めに投げ込むナックル」を。ナックルボーラーならばそこを目指さなければならなかった。打者のバットが空を切る。三振の山を重ねてこそ、ナックルボーラーなのである。

<次回11月22日公開予定>

文=山森恵子
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