週刊ベースボールONLINE

プロ野球デキゴトロジー/11月16日

野村克也、引退ではなく、“背広の現役”のスタート【1980年11月16日】

 

80年8月1日、通算3000試合出場でも盛大なセレモニー。愛息・克則君もかわいらしい


 プロ野球の歴史の中から、日付にこだわって「その日に何があったのか」紹介していく。今回は11月16日だ。

 巨人長嶋茂雄監督の退任騒動、さらには王貞治の引退の陰で、希代の名選手が引退を発表した。1980年11月16日は、西武野村克也の引退セレモニーがあった日だ。

 南海で強打の捕手として名を上げ、兼任監督として1973年にリーグ優勝も果たしたが、球団ともめ、「女を取るか、野球を取るか」で女を取って解任。以後、「生涯一捕手」を掲げ、ロッテ、さらには79年、西武に移籍した。

 80年は西本幸雄監督の推薦でオールスターにも出場。8月1日には当時以後、日本球界ではだれも届かないのではと思われた3000試合出場も果たしている。ただ、年齢は45歳。特に肩の衰えは顕著で、この年限りでの引退がささやかれていたが、本人の口から出るのは、むしろ現役続行への意欲が色濃く感じられる言葉ばかり。王の引退を聞いたときも「なおさらやめられなくなったなあ」とボソリ、つぶやいた。

 しかし11月15日、球団事務所でのフロントとの話し合いの後、ついに引退会見。

「仕事は人間を作ると言いますが、私も仕事の中で自分の水準を高めながら、懸命にそのテーマと取り組んでまいりました。かねて私は、ボロボロになって12球団のどこも契約してくれなくなったときが引退の時期だと言ってきました。選手としての成長と貢献をもう果たせないと判断して引退を決意しました」

 のち、この年の最終戦で代打を出された際、悔しさからその選手の失敗を祈ったことで、もう現役は続けられないと思ったと語っている。

 11月16日、西武球場での盛大なセレモニーで見送られた後、記者たちに請われ、若手へのメッセージを残した。

「テスト生の俺が27年間もプレーすることを誰が予想したろう。常に高い水準を求めて一歩一歩、前進してほしい」

 引退会見同様、悟りを開いたかのような言葉も野村らしい。

 ただ、当時の記事中の次の言葉にさらに魅かれ、さすがとヒザを打った。

「これから背番号なき現役。これからは背広の現役でいくわ」

 生涯現役、その生き方をいまもノムさんは貫いている。

写真=BBM
週刊ベースボール編集部

週刊ベースボール編集部

週刊ベースボール編集部が今注目の選手、出来事をお届け

関連情報

みんなのコメント

  • 新着順
  • いいね順

新着 野球コラム

アクセス数ランキング

注目数ランキング