週刊ベースボールONLINE

トレード物語

【トレード物語10】野村監督の退団とともに“野村一家”の江夏&柏原が南海に別れ【77年】

 

近年は少なくなってきたが、プロ野球の長い歴史の中でアッと驚くようなトレードが何度も行われてきた。選手の野球人生を劇的に変えたトレード。週刊ベースボールONLINEで過去の衝撃のトレードを振り返っていく。

指揮官が一選手としてロッテへ


野村監督の南海ホークス解任記者会見


[1977年オフ]
南海・江夏豊広島(金銭)

南海・柏原純一日本ハム小田義人杉田久雄

 1977年オフ、球界が揺れに揺れた。南海の監督兼捕手・野村克也の解任劇である。表面化したのは、9月下旬のことだ。球団幹部が記者会見で、「野村監督は公私混同がはなはだしく、監督として不適格」。野村本人は「私は辞表を出すつもりはない。勝手なことを言う球団だ」と烈火のごとく怒り、徹底抗戦を宣言する。

 当時交際中だった沙知代現夫人が、チームや選手にうるさく口出しし、チームを私物化しているというのだ。また、元監督で依然として強い支配力を持っていた鶴岡一人との確執もあり、結局野村は24年間にわたって着た南海のユニフォームを脱ぐことになる。それも通告は、たった1本の電話で、だったという。

 野村は戦後初の三冠王をはじめ、本塁打王9回のチームの金看板で、監督としても73年、チームを7年ぶりのリーグ制覇に導いている。江本孟紀山内新一松原明夫、そして江夏豊を火消としてよみがえらせた投手再生の手腕は、チーム強化に欠かせない。

 ただ、野村本人は、そんなのは知ったこっちゃない。解任後に記者会見を開き、「11球団でどこか私を買ってくれるところがあれば、喜んで行くつもりだ。まだやれる自信はある」と、42歳の一選手としてロッテに移籍した。ことは、それだけではすまない。“野村一家”とも言われていた江夏、柏原純一も「野村さんと行動をともにする」とトレードを希望したのだ。

恩師への恩義からトレード志願


野村監督への恩義からトレードを申し出た江夏。金銭で広島へ移籍した


 江夏にしてみれば、血行障害や心臓疾患で成績がジリ貧だった自分を拾い、リリーフ投手に育ててくれた恩義がある。

 当時、リリーフの地位は低かったが、「野球界に革命を起こそう」と76年、南海に引っ張ってくれたのが野村だ。そして77年には、最優秀救援投手のタイトルを獲得している。もともと江夏は、阪神で野球を終えるつもりだった。だが、ある試合。満塁のピンチを三振で切り抜けた江夏をたまたま見ていた野村が、「最後、意図的にフルカウントからボールを投げたやろ」と喝破。これにグラッときて移籍を了承し、入団後もその深い野球観にますます傾倒するばかりだ。結局江夏は、「野村さんがやめる以上は、自分も出してくれ」と発言し、金銭で広島に移籍している。

 柏原にしても、高卒でプロ入りした自分を育ててもらったという思いが強く、野村と同じロッテへの移籍を希望。南海側は日本ハムの小田義人、杉田久雄とのトレードを通告したが、これを拒否し続けてかたくなにロッテを希望した。年が明け、78年になってもトレードは成立しそうもなく、ついにしびれを切らした球団は、「日本ハムに保有権を移す」と通告した。

 江夏はその後、名高い“21球”などで球界を代表する火消となり、柏原も日本ハムでベストナイン3回。だが、野村の解任で四番打者と監督、守護神、そして主力打者候補を失った南海は、名門の見る影もなく弱体化し、ダイエーとなった後の98年の3位まで、なんと20年もBクラスに低迷することになる。

写真=BBM
週刊ベースボール編集部

週刊ベースボール編集部

週刊ベースボール編集部が今注目の選手、出来事をお届け

関連情報

みんなのコメント

  • 新着順
  • いいね順

新着 野球コラム

アクセス数ランキング

注目数ランキング