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背番号物語

【背番号物語 序章02】阪神「猛虎の系譜は『いろは』から始まった」

 

背番号は選手たちの「もうひとつの顔」だ。ある選手が引退しても、またある選手がその「顔」を受け継ぐ。その歴史を週刊ベースボールONLINEで紐解いていこう。

「いろは歌」が礎を築いた



 伊賀上良平小川年安岡田宗芳、渡辺一夫、景浦将……門前真佐人。1936年、創設1年目の阪神で、選手を背番号「1」から順に「17」まで並べたものだ。実はこれ、単に背番号の順だけではない。名前の「いろは順」に並んでいるのだ(「4」と「13」は縁起が悪い番号とされたためなのか欠番扱い)。「18」の若林忠志からは「いろは順」ではなく、これらの経緯は今や知るすべもない。ただ、ここから阪神の80年以上にわたる背番号の歴史が始まったことだけは間違いない。

 選手と背番号との出合いは、わずかな必然と多くの偶然に委ねられる。創設期の阪神は、そんな中でも偶然性が圧倒的に高いと言えるだろう。いろは順だから、まず投手と野手の区別もない。その後も、他の球団であれば野手が着ける1ケタの背番号を投手が着け、投手が着ける10番台の背番号を野手が着けるケースが散見されるのも、その名残だろうか。

 そもそも、最初に「6」が割り振られた景浦が投打の二刀流だった。36年秋から2季連続で規定投球回、規定打数ともに到達。36年秋に最優秀防御率、外野手としての出場が多くなった37年秋には首位打者に輝いた。景浦は45年に戦死したが、その背番号は藤田平和田豊らを経て、今は金本知憲監督の背中に受け継がれている。

 また、強打者のイメージが強い“初代ミスター・タイガース”藤村富美男も、投手タイトルこそないものの、長きにわたって二刀流で活躍していた。その「10」は球団初の永久欠番になっている。

 続く「11」も“炎のエース”村山実(昌史)が背負って永久欠番に。その後のエースナンバーと言えるのは「19」だろうか。“酒仙投手”西村幸生が37年から着けて、その秋には最多勝、最優秀防御率の投手2冠。79年に“トレード”で加入した小林繁が古巣の巨人をカモにして最多勝。85年“猛虎フィーバー”のクローザー・中西清起を経て、現在は藤浪晋太郎が背負っている。

阪神ならではの独特な個性


阪神・江夏豊


 輝きを放つ背番号が独特なのも阪神の特徴だろう。阪神が背番号のイメージを築いて他の球団へ“輸出”したのが「22」と「44」だ。

「22」に強打者のイメージを作ったのが田宮謙次郎で、田淵幸一に受け継がれたことで捕手の番号として他のチームにも定着。ただ、のちに救援投手の印象が強くなり、それが阪神にも“逆輸入”されてクローザーの藤川球児が背負うようになった。

「44」は85年から2年連続で三冠王に輝いた“最強の助っ人”バースの背番号。ほぼ同時期にパ・リーグの三冠王となった阪急のブーマーとともに外国人長距離砲の背番号として定着させた。

 阪神だけの強烈なインパクトがある背番号も少なくない。まず、V9巨人に立ち向かった左の剛腕・江夏豊の「28」。江夏は阪神から放出されて「28」と決別したが、それだけに「28」には“阪神の江夏豊”のイメージが色濃く残る。

 また、“今牛若丸”と呼ばれた吉田義男の「23」は、監督として85年の日本一に導いた功績により退任時に永久欠番に。このときの五番打者・岡田彰布の「16」は一般的には投手の背番号。巨人の川上哲治も「16」だが、川上は投手出身であり、打者の番号としては異色だ。そして、不動の四番・掛布雅之の「31」。掛布は2016年、その「31」で二軍監督として復帰して、当時を知るファンを狂喜させた。

 極めつけは、日本球界で初めて「00」を着けた88年のジョーンズと、日本球界唯一の「02」を着けた93年の松永浩美。「00」の登場は斬新で、他の球団にも普及していったが、さすがに「02」は独特すぎたのか、のちに規定で禁止されている。

写真=BBM
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