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トレード物語

【トレード物語18】長嶋監督の執念で張本獲得【1975年】

 

近年は少なくなってきたが、プロ野球の長い歴史の中でアッと驚くようなトレードが何度も行われてきた。選手の野球人生を劇的に変えたトレード。週刊ベースボールONLINEで過去の衝撃のトレードを振り返っていく。

あっさりと断られるも……


日本ハムから巨人へ移籍した張本


[1975年オフ]
日本ハム・張本勲⇔巨人・高橋一三富田勝

 1975年、長嶋巨人1年目は屈辱の最下位で終わった。シーズン終盤から水面下で補強工作を展開していた巨人は、全日程が終わると、日本ハムの張本勲にまず白羽の矢を立てた。

 日本ハムは2年連続最下位に終わり、監督の中西太が退団。大沢啓二監督が誕生したばかりだった。長嶋茂雄監督にとって、大沢監督は立大の先輩であり、張本の移籍を申し入れた。だが、「張本抜きの打線は考えられない。私が日本ハムの監督を引き受けたのも、張本にクリーンアップを打たせるつもりだったから。張本放出は考えていない」という素っ気ない返事で、あっさりと断られた。

 しかし、巨人は引き下がらなかった。それというのも張本がトレードを熱望している上、日本ハム・大社義規オーナーも、張本放出を考えていたからだ。

 そもそも、張本の巨人への移籍話はその4年前にも東映(日本ハムの前身)・田宮謙次郎監督と巨人・川上哲治監督との間で話し合われ、成立寸前までこぎつけていたことがあった。川上監督が「日本球界で3000安打を記録できるのは、この男のほかにいない」とほれ込んだ張本を、巨人という王道を歩むチームに入れ、人間的にも成長させ、ONの力をより生かすための五番に予定していたという。

 このときの話はつぶれたが、75年6月にも移籍話は成立直前まで進んでいた。王の低空飛行もからんで、最下位に沈んでいた長嶋巨人だったが、「まだ挽回のチャンスは大いにあり」と考え、6月初旬に再燃したが結局、かなわなかった。

見事な活躍で優勝に貢献


張本は打率.355をマークして優勝に貢献した


 大社オーナーは大沢監督に張本放出をのませると、11月14日に読売新聞社を訪ねて話をまとめた。そして、同20日、都内のホテルで「長嶋−大沢会談」を敢行。約2時間半にも及ぶ話し合いを終えた両監督は会見場に並んで座った。

 まず大沢監督が「この話し合いは張本君個人の意志ではなく、球団の方針です」と前置きして、「長嶋監督との間でトレードについて、今日、合意に達しました。ただ、こちらの希望とする選手と巨人側とが合わないので、これから煮詰めていくことになります」と硬い表情で話し始めた。大沢監督も張本残留を前提に監督を引き受けた以上、張本放出となれば、かなりの要求を長嶋監督に申し入れたのは当然だ。

 一方の長嶋監督としてはできれば若手投手プラス金銭ということで話を進めたかったようだが、多少の犠牲を払わないと張本を獲得できない状況となった。

 長嶋監督の執念は本物だった。オープン戦のため九州へ渡った長嶋監督はもう1つの懸案事項だった「抑えもできる球の速い投手」を獲得するため、74年の防御率1位の関本四十四玉井信博を放出し、太平洋から加藤初伊原春樹を獲得するトレードをまとめた。そして帰京した24日深夜、電話で大沢監督に20勝を2度マークした左腕・高橋一三と富田勝を提示して、一気にトレード成立に持っていき、翌25日に正式発表となった。

「全身がゾクゾクっと震えるような感じだった」と巨人移籍に関して表現した張本。我が強く、日本ハム時代にしばしば首脳陣と衝突したことを危惧する声もあったが、「私は巨人を優勝させるため、ワンちゃん(王貞治)に三冠王を取らせるために来た。自分のことはどうなってもかまわない」ときっぱり。その言葉どおり、76年の開幕から飛ばし、6月20日には30試合連続安打も達成。夏場には疲れも見え、「日本ハム時代なら間違いなく休んでいた」と言うが、最後まで気を抜くことなく全力で戦った。

 中日谷沢健一と競い、わずか一毛差で首位打者を逆転されたが、「休めば取れたかもしれないが、あの年に関しては、まったく悔いはない」と言い切る。最終的には打率.355をマークし、長嶋巨人の優勝に大きく貢献した。

写真=BBM
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