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背番号物語

【背番号物語 序章05】ソフトバンク「“大阪”と“福岡”で系譜に大きな断絶はなし」

 

背番号は選手たちの「もうひとつの顔」だ。ある選手が引退しても、またある選手がその「顔」を受け継ぐ。その歴史を週刊ベースボールONLINEで紐解いていこう。

南海の面影


南海・杉浦忠


 2017年、2年ぶり8度目の日本一に輝いたソフトバンク。投打ともに選手層の厚さは他の追随を許さない。ダイエー時代の1999年に王貞治監督が初の日本一に導いて以来、常勝でこそないものの、長い黄金時代にあると言えるだろう。その前身は大阪に本拠地を置いていた南海ホークス。南海は2リーグ分立の50年代に黄金時代があり、個性的な選手たちが日本シリーズの舞台で巨人と激闘を繰り広げた。大阪と福岡、舞台こそ違うが、背番号の系譜に大きな断絶はない。

 今年の日本シリーズ第6戦、9回裏に起死回生の同点ソロを放った内川聖一の「1」の初代は、南海の初代主将でもあった岩本義行。その後、ブレイザー古葉竹識桜井輝秀ら野球巧者を経て、ダイエー時代に秋山幸二が背負って再び中心選手の背番号に。戦後の46年に監督を兼ねた鶴岡(山本)一人も1年だけ着けている。

 ホットコーナー・松田宣浩の「3」は15年限りで引退した平成の三冠王・松中信彦の背番号だが、松田が16年まで着けていた「5」の初代が、その鶴岡だ。名将のイメージが圧倒的だが、現役時代の鶴岡も当初は三塁手だった。ポジションは違うが、“100万ドルの内野陣”の一角を担った飯田徳治の「23」、岡本伊三美の「24」は、それぞれ城所龍磨長谷川勇也が受け継いでいる。

 投手では、野村克也兼任監督時代に台頭した江本孟紀の「16」が東浜巨、クローザーに転身して復活を遂げた江夏豊の「17」はセットアッパー・岩嵜翔の背に。野村監督退任後の暗黒時代をエースとして支え続けた山内新一の「20」は寺原隼人が着けている。

「21」は南海のエースナンバー。創設期の川崎徳次から2リーグ分立時の柚木進を経て、58年に“血染めの4連投4連勝”で悲願の日本一に導いた杉浦忠が背負った。ダイエーとなって2年だけ現在の監督でもある工藤公康が着け、現在は和田毅の背に。この「21」、和田が入団時から着けていたものだが、メジャーを経て16年に復帰するまでの間、12年に育成から支配下登録されたばかりの千賀滉大が、13年から15年は岩嵜が着けている。ともに17年のタイトルホルダーだ。

ダイエー以降の新たな系譜


背番号「15」藤井将雄


 中村晃の「7」は井口資仁(忠仁)、柳田悠岐の「9」は小久保裕紀が着けていた背番号だ。南海時代は比較的バイプレーヤーが多い背番号で、小久保と井口がダイエーで新たに強打者のイメージを築いたと言えるだろう。

「47」は工藤が西武時代に着けていた背番号で、97年に「21」から戻す形に。その後、巨人へ移籍するまで左腕・杉内俊哉が着け、現在はドラフト1位で16年に入団した右腕の高橋純平が受け継いだ。また、永久欠番ではないが、事実上の欠番となったのが「15」。黄金時代に入ったばかりのダイエーで“炎の中継ぎ”と呼ばれたが、00年の日本シリーズを前に急死した藤井将雄の背番号だ。

 近年の新しい流れもある。今宮健太の「2」は香川伸行城島健司ら強打の捕手が着けていた背番号で、攻守走の三拍子がそろった選手、という一般的なイメージに近づいた形だ。また、千賀の「41」、攝津正の「50」、サファテの「58」あたりも、新しいイメージを築く可能性が秘められた背番号だろう。

 やや余談めくが、ホークスの背番号で忘れてはならないのが門田博光川崎宗則の存在だ。門田は入団時の「27」から80年に「44」へ変更し、翌81年に44本塁打で初の本塁打王に。83年には「60」に変更して、さらに上を目指した。川崎の「52」は、「51」の次、という意味。「51」とはもちろん、川崎があこがれてやまないイチローのことだ。

写真=BBM
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