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キセキの魔球

【キセキの魔球23】身も心も魔球に捧げたナックルボーラー、命がけの完全燃焼

 

2017年6月19日。大家友和は現役引退を発表した。日米を股にかけて活躍した右腕だが、もしナックルボールと出合っていなければ41歳まで野球を続けることはなかっただろう。どこまでも野球と愚直に向き合った大家とキセキの魔球を巡る物語――。

「僕には時間がない」


大家の野球人生も最終章に差し掛かってきた(写真はインディアンス時代)


 ナックルボールを投げ始めてから3年半が過ぎた。ナックルに手を染めてからずっと大家友和が切実に思っていたことがある。

「僕には時間がない」

 ナックルの習得には時間がかかる。たとえプロでも極めるまで辛抱できる人はそう多くない。ナックルボーラーとして唯一サイ・ヤング賞を受賞し、現代におけるナックルボールのヒーローであるR.A.ディッキーが投げ始めたのは30歳のときだ。ナックルで勝てるようになるまでに5年以上かかっている。

 遊びでナックルを投げる人は大勢いるだろう。なにしろ100年も昔からアメリカ球史に名を刻んできた魔球である。たとえば1919年のシカゴ・ホワイトソックス対セントルイス・カージナルスのワールド・シリーズをめぐる八百長疑惑で、のちに永久追放されたいわゆる“ブラックソックス”の8人のうちの一人、エド・シーコットは、ナックルボールを最初に極めた人だと言われている。少しあとの時代になると、チューイングガムのおまけとして、ベースボールカードと一緒にナックルの投げ方が図解入りで添えられていたこともあった。当時から、子供たちが見よう見まねでナックルの握りでキャッチボールを試していたのだ。

 魔球がそれほど身近な存在でありながら、ナックルボールを極める者はほんのひと握りだ。エド・シーコットの時代から、メジャー・リーグからナックルボーラーが途絶えたことは一度もないそうだけれど、全投球の8割から9割ナックルを投げ込む現役のピュア・ナックルボーラーの数は、多いときでも5人前後、少ないときにはたった1人という時代もあり、ナックルボールはずっと絶滅危惧種であり続けてきた。

機能不全に陥る寸前の肉体


 2016年、大家友和は40歳になっていた。ナックルを投げ始めて4年目のシーズン、40歳の独立リーガーだった。かつてのチームメートだったティム・ウェイクフィールドやディッキーがナックルの取得に時間を要したことは十分に知っている。だから極めるまでの時間をどれだけ急げるか、そこが彼には大事だった。

 その年の正月、大家は右ヒジから“ネズミ”を取っている。ネズミとは、関節軟骨の一部がはがれ、その骨片が関節に挟まり、激痛を伴う関節遊離体という症状である。前年のシーズン終盤、ある日、彼のヒジはパキッと、突然ロックがかかり、激痛が走った。ロックは毎回かかるわけではなく、ネズミはおとなしい日もあれば、大暴れすることもあった。暴れた日、彼の腕はパンパンに腫れ上がり、腫れが引くまで1週間かかった。もし、ネズミを除去する手術をするとなれば、完全復帰まで半年かかるケースもあるという。ただでさえ彼には時間がないのだ。さて、どうするか。迷った末、思い切ってネズミを除去する内視鏡手術を受けることにした。ヒジからは3つの骨片が見つかった。痛かったはずである。

 プロ野球選手になって23年目に初めて取り除いたネズミだった。彼の右腕に刻まれた傷跡は、その腕で23年間戦い抜いてきた投手の証だった。手首からヒジに伸びる20センチの傷は、12年前にピッチャー返しを食らった橈骨(とうこつ)骨折のときのものだ。肩の付け根の2つの傷は、5年前に肩の骨の毛羽立ちをクリーニングする手術を受けたときのもの。そして、ヒジには今回のネズミを除去した内視鏡手術の痕。商売道具の右腕は傷だらけだった。でもそこには、その都度苦難を乗り越え投げ続けてきた彼の歴史が刻まれている。それでも右腕はなんとかしてきたのだ。問題は彼の肉体の中枢だった。

――僕には時間がない。

 それはナックルボーラーとしての焦りというよりは、疲弊していた彼の肉体が、この体がもつのはあとほんの少しだよと、そう促していたのかもしれない。彼はナックルを投げ始めたとき、「この道がどこへ続くのか、僕にはまったく分からない」と言っている。でも、道は続いていた。彼はそれ相応の高精度のナックルを投げる真のナックルボーラーへと成長していたのだ。

 しかし、彼の肉体は機能不全に陥る寸前のところまできていた。彼の気力が肉体の限界を上回っていただけで、肉体は警笛を鳴らしていたのだ。アスリートならば自分を追い込み、高みを目指す、それが彼の仕事だった。そうやって23年間闘ってきた。でも、その闘いにはいつか必ず終わりが来る。終わりに近づいていることを自分でも分かっている。でも、終着点までの距離を正確に計ろうなんてアスリートはしないものだ。自分の臓器が機能しなくなる日まで、大家は全魂をナックルボールに注ぎ込んでいた。

同じナックルは2度と投げられない

  
 2016年、それは大家友和にとっての最後のフルシーズンとなる年だ。そしてナックルボーラーとしての結晶が詰まった1年を送った。

 ネズミを取る判断は間違っていなかった。その年、彼は近年で最高の肩の状態を手に入れた。そして、久々に肩をフルスイングしてみたい、そう思った。

 独立リーグのBCリーグ・福島ホープスとして投げたこの年、ナックルの進化を計る上で、古巣・富山サンダーバーズとの対戦が一つの目安になるだろう。元チームメート同士、手の内を明かした上での知恵比べだ。ナックルを投げ始めたばかりだった3年前からどう進化したのかを、元の仲間ならば見抜けるはずだ。

 大家は春と秋の2度、富山戦に先発している。まず春の対決で投げ合った富山の先発、秦裕二が試合後、「あの球もナックルでしたか?」と聞いている。試合中、選手たちは投球の軌道をダグアウトで斜めから見ることになる。その軌道から球種を判断するのだ。しかし秦には、大家の投げる球の軌道だけでは球種を判断することができなかった。なぜなら、ナックルの球筋が以前とまったく違っていたからだ。ナックルの放物線はより直線的に変わっていた。

 この試合で最も印象付けたのは、大家の投球の主役が完全にナックルボールになっていたことだ。他の球種との絡ませ方が以前とは変わった。ナックルは今や完全に勝負球になった。勝負球を効果的に使うために他の球種を織り交ぜる。仕留めるのは、ナックルで。

 富山サンダーバーズで当時コーチ兼任外野手だった元阪神野原祐也(現OBC高島監督)は、5月の試合で大家のナックルと初対戦した。1打席目は、ナックルで2ストライクと追い込まれてから4球目を軽い当たりでレフト手前へヒットを打った。野原には、この4球の軌道はほぼ同じに見えたそうだ。そしてショートゴロに打ち取られた2打席目、ナックルは違った揺れ方をした。

「差し込むように感じました。揺れてから内側にすとんと落ちる、逃げながら落ちていくような感じでした。(ナックルは)スピードが遅いというイメージを持っていたんですけれど、実際は速く感じました。力で打ち込もうとか、スイングしようとすると捉えられないので、やさしく当てるようなイメージで。ナックルの印象は、コントロールが効いていて、進化していると感じました。3年前とはまったく違います」

 このころの大家のナックルボールは一つの方向性を見出していた。ナックルはその再現性が他の球よりずっと難しいとされる。フィル・ニークロも、同じナックルは2度と投げられないと言っている。いいときの再現性が少しでも狂えばボールはクルクルと回転し始めてしまうのだ。大家はナックルボールの高速化を目指していた。ボールのスピードを上げた上で、本来そうすることでボールに回転が生じやすくなることをどこまで食い止め、精度を保つかという究極に挑んでいた。いい球の再現性が高まれば、ボールの微調整がしやすくなる。ナックルボーラーができる最大限のことは、手からボールが放たれる瞬間までである。ストライクゾーンのターゲットを大きめに描き、フォームと力の入れ具合によって微調整の効いたナックルを投げ込む。すると赤い縫い目が空気とぶつかり、球は揺れる。そして、偶発的要素と合わさりゾーンの辺りで何かしら起こるのだ。

最後にナックルボールをどこへ……


大家には野茂から言われた忘れられない言葉があった


 9月、再び福島対富山の対戦となり、もう一度大家と対戦することになった野原祐也は、4カ月前とのナックルの質の違いを実感していた。

「前回よりも揺れたというか、ぜんぜん曲がるところが分からなかったので、前回は緩い球を打ち返すというようなイメージだったんですけど、今回はそれがまったくできませんでした。本当に打ちにいったときにストーンと落ちちゃったので、爪を痛めてしまったんです。1球目、見逃しでボールだったんですけど、ストライクと思ったんで、そこからグーンと曲がったので、戸惑いました。それから今日思ったのは、速いナックルと、遅いナックルがあって、さらにストレートとカットボールで、僕らはほぼ術中にはまった感じですね」

 富山の打者、望月謙人は、ボールと目が合うことの不気味さをこう表現している。

「普通、球は回転しているので縫い目が見えないじゃないですか。でも、大家さんのナックルは回転してないので、(ボールと)目が合う。縫い目が見えるんです。そのせいもあって、ボールの距離感がつかみにくいです」

 1打席目、望月へ投げ込まれた全4球。1球目はファウル、2球目は自打球、3球目もファウル。2ストライクと追い込まれ、望月は、大家がきっと自分は振ってくるバッターだと思われているだろうと想像し、速いストレートを待った。しかし、投げ込まれたのはナックル。それまでの3球は内側から入り込んできたので奥行きがつかみにくかったが、4球目は外側から入ってきたのでようやく距離感をつかみ、バットに当てることができたと言っている。


 この日、大家は富山時代の仲間に話している。

「前は思っていた。以前のように投げられたらなあって。でも、今は思わないもの」

 ナックルを投げ始めたころは昔の自分が邪魔をした。バッターと対峙すると、昔投げていた球で打者を苦しめている映像が脳裏に浮かんだものだ。でも、実際に投げ込む球はイメージとは程遠い軌道ではなたれてしまう。ブルペンで投球練習のときはそうした心理にならないのに、試合のマウンドに立つと突然、以前の栄光の時代の自分の姿が現れる。「クソ、なめられてんな」と、そんな自分が腹立たしかったのだ。

 ナックルボーラーが好んでつけるようになった背番号49の元祖、ホイット・ウィルヘルムは言っていた。

「それまでのすべての球を封印しろ。ストレートもカーブもスライダーも捨てて、そしてナックル一筋になれ」と。

 そしてこのころの大家は、その辺に転がるボールを拾い上げたとき、ストレートの握りではなく、ごくごく自然とナックルの握りでボールをつかむようになっていたのだ。その体にナックルボールが染み込んでいた。

 肝心なことは、この段階まで辿り着いた大家友和のナックルボールを最後にどこへ持って行くか、である。3年前、一度メジャー球団には見せている。そしてマイナー契約を結び、袖にされた過去がある。でも、彼のナックルの質はそのころとは雲泥の差なのである。でも、それを評価できる者は日本国内には1人もいない。そして、どんなに彼のナックルが進化しようとも、日本の独立リーグで打者を打ち取ることが彼のゴールではなかった。

 大家には忘れられない言葉があった。それは野茂英雄が大家に言った一言である。

「失敗したって、何度でもやり直したらいいやん」

 2016年11月2日、アリゾナ州フェニックスで、複数球団のスカウトが集まり、大家友和単独ナックルボールの公開トライアウトが行われることが決まった。正真正銘、これが大家友和の最後の挑戦になる。19年前、自分の真価を求めてアメリカに渡ったと同じように、ナックルボールの真価を求め、彼はトライアウトが行われる砂漠の地へと飛び立ったのである。

<次回12月6日公開予定>

文=山森恵子
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