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背番号物語

【背番号物語 序章06】日本ハム「清宮の『21』など大胆な路線変更が特徴」

 

背番号は選手たちの「もうひとつの顔」だ。ある選手が引退しても、またある選手がその「顔」を受け継ぐ。その歴史を週刊ベースボールONLINEで紐解いていこう。

東映時代からの脱却



 戦後、プロ野球が再開された1946年から参加したセネタースが起源。その前年、45年11月23日に行われた東西対抗戦でホームランを放って颯爽と登場した“青バット”大下弘の存在とともに、焦土からの復興に汗を流す多くのファンを沸かせた。その後、東急、急映、東急と球団名が変わり、落ち着いたのが54年、東映フライヤーズとなってから。低迷は続いたが、駒沢球場に本拠地を置いたため、張本勲を筆頭に“駒沢の暴れん坊”と呼ばれて、パ・リーグをかき回した。

 日拓ホームの1年を挟んで74年から日本ハムに。その後も北海道移転というエポックがあったが、背番号の歴史においては、大杉勝男白仁天大下剛史、張本ら“暴れん坊”たちが次々と放出され、チームカラーの刷新がはかられた、このときの分断のほうが大きい。

 張本の「10」、“江戸っ子エース”土橋正幸が1年目に着けて出世番号の印象もあった大杉の「51」などのイメージは日本ハムに継承されず、投手でも、土橋の「21」は高橋直樹西崎幸広ら、“怪童”尾崎行雄の「19」は間柴茂有らと、投手にこそ受け継がれたが、近年では「21」は武田久、「19」は増井浩俊らクローザーの背番号となっている。

 かろうじて継続性を感じられるのが斬り込み隊長だった大下剛史の「1」。日本ハムとなって名バイプレーヤー・菅野光夫が長く着けていたが、ヘッドスライディングで鳴らした広瀬哲朗からトリックスターSHINJO、森本稀哲陽岱鋼らに受け継がれ、生きのいい打者の背番号に戻りつつあった。しかし2017年、大いに期待を受けながら長く伸び悩んでいる投手の斎藤佑樹に与えられ、完全に路線変更。早実高、早大で一世を風靡したときと同じ番号で、さらなる期待を受けている。

 もっとも、路線変更が多いのは日本ハムの特徴でもある。斎藤が16年まで着けていた「18」は外野手の岡大海に。クローザーとして81年のリーグ優勝に貢献した江夏豊の「26」は、投手として入団した糸井嘉男から野手の番号となり、現在は外野手の淺間大基に。また、前述した「21」は17年秋のドラフト1位で入団した清宮幸太郎の背に。大胆な路線変更で、新たなる伝説を築けるか。

世界に羽ばたくエースナンバー


日本ハム・ダルビッシュ有


 現在までの系譜と呼べるのは、やはり日本ハムとなってからだろう。中田翔の「6」は通算2000安打を達成した“ミスター・ファイターズ”田中幸雄が長きにわたって背負い、中心選手のイメージに。ちなみに、同時期に在籍してノーヒットノーランも達成した投手の田中幸雄が着けていた「12」は、現在は内野手の松本剛の背にある。

「7」は坪井智哉から糸井らを経て西川遥輝の背に。片岡篤史ら巧打者の「8」は近藤健介。近藤は捕手だが、17年は序盤から打率4割を維持、故障離脱で大記録は幻と消えたものの、巧打者の系譜は確実に受け継いでいる。

 田中賢介の「3」は、同様に小柄ながら長きにわたって活躍した白井一幸の背番号。現役最晩年の落合博満も着けており、さらにさかのぼれば、その初代は大下弘という豪華な顔ぶれが並んでいる。

 ダルビッシュ有の登場でエースナンバーとなったのが「11」だ。13年から継承した大谷翔平の投打にわたる大活躍で、さらなる価値を「11」にもたらした。17年オフ、大谷はポスティングでメジャー挑戦を表明。ダルビッシュもメジャーで活躍を続けている。日本ハムや日本球界にとどまらず、世界に羽ばたく“出世番号”と言えるかもしれない。

 唯一の永久欠番は「100」。日本ハムの初代オーナー・大社義規の野球殿堂入りに際し、81年のリーグ優勝時に着用していた「100」を09年に永久欠番としたものだ。

写真=BBM
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