背番号は選手たちの「もうひとつの顔」だ。ある選手が引退しても、またある選手がその「顔」を受け継ぐ。その歴史を週刊ベースボールONLINEで紐解いていこう。 過去の栄光に背を向けて?
ヨコハマ。幕末期、最初に開かれた港のひとつで、以来、多くの舟人が訪れては、去っていった。あたたかく異郷の人を迎え入れるが、去りゆく者を追うこともない。夜霧の漂う港町には、乾いた風が似合う……。
これでも背番号の話をしている。たびたび小説や映画の舞台となり、その世界で描かれるヨコハマの“定型文”はこんなところなのだが、大洋から横浜、そして現在の
DeNAに至るまで、背番号の系譜においても、こんなところなのだ。先輩の背番号を受け継いで頑張ります、みたいなウェットな部分が希薄で、レジェンドの背番号であっても誰にでも気前よく分け与え、それなりに大切にはするのだけれど、ドライに剥奪する。なんというか、あっけらかんとしているのだ。
近年こそ2年連続でクライマックスシリーズに進出、2017年は日本シリーズにまでコマを進めたが、その長い歴史のほとんどが低迷期と言え、それもまた執着がない一因かもしれないが、レジェンドと呼べる選手も少ないわけではない。
まず、1960年の初優勝、日本一の立役者となったエースの
秋山登。その「17」は横浜大洋の暗黒期に100勝100セーブを達成した
斉藤明夫(明雄)が背負い、
盛田幸希(のち幸妃)や
加藤武治らを経てきたが、タイプはバラバラだ。
2度目の優勝、日本一で旋風を巻き起こした98年、“大魔神”
佐々木主浩の「22」はクローザーの背番号として他のチームには浸透していったものの、当の横浜では継承されず。2007年から
高崎健太郎が背負い、さらなる暗黒期で開幕投手を務めたこともあったが、17年限りで惜しくも戦力構想から外れた。
横浜大洋と運命をともにしたエース・
遠藤一彦の「24」も同様。優勝経験こそないものの、“カミソリ
シュート”を駆使してV9
巨人、中でも
長嶋茂雄に牙をむいたチーム唯一の200勝投手・
平松政次の「27」ですら似たり寄ったりだ。そもそも、創設期から長きにわたる親会社は大洋漁業。下関から川崎を経て横浜に漕ぎ着けた海の男たちは、過去の栄光などには頓着しないのだ(?)。
「18」は横浜ナンバー
極めつけは「1」だ。他のチームなら“顔”とされるナンバーも、
近藤昭仁、
山下大輔ら内野手の背番号と思いきや、1989年から捕手の
谷繁元信の背に。それも「プロテクターをすると見えないよ」と剥奪され、
進藤達哉、
金城龍彦らを経て、16年から投手の
熊原健人が着けた。さらに来季から熊原は「22」になり、外野手の
桑原将志が「1」を着けることになった。
独特な系譜どころか、もはや系譜とは言えないほどの独自路線だ。“天秤棒打法”の
近藤和彦から“オバQ”
田代富雄らを経て、クラッチヒッター・
佐伯貴弘がこだわった「26」も現在は投手番号。ただ、17年から「26」を着けた新人の
濱口遥大は日本シリーズで
ソフトバンクを相手に8回一死まで無安打無失点の快投を演じ、新人王こそ逸したが、新人特別賞を授与された。「26」に新たな印象を築きつつあると言えるだろう。
それでも近年は、背番号への執着を垣間見せる場面も出てきている。16年限りで現役を引退した三浦大輔が98年から長く背負い続けた「18」が準永久欠番となった。ただ、単なる準永久欠番にとどまらず、“横浜ナンバー”と称してしまうあたりも、やはり独特だ。
かろうじて系譜と呼べるのは「25」と「51」だろうか。主砲・
筒香嘉智の「25」は
松原誠、若手時代の
内川聖一、そして本塁打王2度の
村田修一らが受け継いできた強打者のナンバー。
宮崎敏郎の「51」は“マシンガン打線”の中軸・鈴木尚典が初の首位打者となったときの出世番号だ。筒香は16年に本塁打王、打点王の打撃2冠、宮崎は17年の首位打者に輝いている。まだまだ若い2人の好打者は、さらなる物語を紡いでいくのだろうか。
写真=BBM