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背番号物語

【背番号物語 序章09】西武「獅子に受け継がれた野武士の魂」

 

背番号は選手たちの「もうひとつの顔」だ。ある選手が引退しても、またある選手がその「顔」を受け継ぐ。その歴史を週刊ベースボールONLINEで紐解いていこう。

伝説の西鉄時代



 巨人戦のテレビ中継が全盛期を迎えた1980年代以降、その巨人を日本シリーズでたびたび撃破したのが西武ライオンズだ。ブラウン管の中で躍動する鮮やかな水色のユニフォームに、新たな時代の到来を予感したファンも少なくなかったのではないか。獅子の系譜は、テレビがまだモノクロだった時代にさかのぼっていく。そのときも、宿敵は巨人だった。

 2リーグ分立時に西鉄クリッパースとして参加し、西日本パイレーツを吸収して西鉄ライオンズに。その51年に監督となったのが、追われるように巨人を退団した三原脩だ。悲壮感すら漂う三原の一方で、“野武士”と呼ばれた若い選手たちは元気だった。開幕後、戦後のホームランブームを引っ張った大下弘が加入。52年には“怪童”中西太、53年には豊田泰光、54年には仰木彬と、続々と新戦力が加わる。そして56年、稲尾和久が入団。ついに役者がそろった。巨人を破って悲願の日本一を果たし、そのまま怒涛の3連覇。プロ野球史で異彩を放つ、西鉄黄金時代である。

 63年の日本シリーズで巨人に敗れたのを最後に失速し、“黒い霧事件”で崩壊状態となると、球団は太平洋クラブ、クラウンライターを経て79年に西武となり、本拠地も埼玉は所沢へ移転して、現在に至る。

 西鉄黄金時代を築いた名選手たちの背番号は長らく永久欠番ではなかったが、2012年に生誕75周年となった稲尾の「24」が球団初の永久欠番となった。ただ、ほかのレジェンドたちの背番号も冷遇されていたわけではない。大下の「3」は土井正博から清原和博へ受け継がれ、その後、中島裕之(現・宏之)を経て浅村栄斗の背に。

 仰木の「5」には現在の監督でもある辻発彦やクラッチヒッター・和田一浩の印象も残る。渋めのイメージが続いていた中西の「6」は源田壮亮が背負って今季年の新人王となり完全復活。豊田の「7」は西武黄金時代のチームリーダー・石毛宏典から松井稼頭央片岡易之(現・治大)らを経て、来季から西武に復帰した松井がふたたび背負うことになった。

 ちなみに、永久欠番となる前の「24」は、若手時代の秋山幸二や、中日から加入したバント名人・平野謙ら攻守走に秀でた打者が着けていた背番号だった。

“新ON”を目指して


西武・松坂大輔


 もちろん、西武黄金時代からの系譜も輝きを放っている。秋山の「1」は、球団が「巨人のようなON砲を作りたい」と考えたため。86年から清原が長嶋茂雄の「3」を着けており、87年に秋山が王貞治の「1」を継承した格好に。“AK砲”は期待に応えて黄金時代を築き、以来「1」は主に外野手の背番号となって、現在は栗山巧が背負う。

 田淵幸一から捕手の番号となった「22」は、当初は捕手だった和田や中嶋聡も着けたが、黄金時代の司令塔・伊東勤の「27」が取って代わって、現在は炭谷銀仁朗に継承されている。

 投手では、東尾修の長きにわたる活躍でエースナンバーに定着した「21」が渡辺智男石井貴らを経て十亀剣郭泰源から松坂大輔に受け継がれた「18」は涌井秀章を経て多和田真三郎と、期待を受ける若手の背に。

 一方で、左腕エースのイメージを築いた工藤公康の「47」は、帆足和幸に受け継がれたものの、ともにFAで移籍していってしまったためか、今年は右の助っ人セットアッパー・シュリッターの背にあった。

 新たにエースナンバーとして台頭してきたのが「16」だろう。松沼雅之潮崎哲也、若手時代の涌井ら豪華な顔ぶれの背番号だが、菊池雄星が14年に「17」から変更して、16年に開花、今季16勝で最多勝など投手2冠に輝いた。秋山翔吾の「55」、中村剛也の「60」なども、打者の背番号として新たなイメージが構築されつつあるナンバーと言えるだろう。

写真=BBM
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