背番号は選手たちの「もうひとつの顔」だ。ある選手が引退しても、またある選手がその「顔」を受け継ぐ。その歴史を週刊ベースボールONLINEで紐解いていこう。 平成の黄金時代
原爆で荒廃した広島の地に県民、市民が中心となって築き上げ、創設期の資金難には“樽募金”で支えた、唯一無二の市民球団。それが広島だ。多少ライトにこそなったが、その伝統は今もファンに受け継がれている。背番号の系譜も同様だ。“昭和の黄金時代”の面影もまた、“平成の黄金時代”に色濃く残る。
2017年、広島は2度目のリーグ連覇。昭和を知る世代は、遊撃を守る盗塁王・
田中広輔の「2」に、盗塁王3回の遊撃手・高橋慶彦の姿を思い浮かべるのではないか。同様にスイッチヒッターだった
正田耕三の「4」は選手会長・
小窪哲也の背にある。
名二塁手・
菊池涼介の「33」、MVPに輝いた
丸佳浩の「9」は、ともに昭和の名バイプレーヤー・
長内孝の背番号。時代が平成となり、「33」は
江藤智が、「9」は現在の監督でもある
緒方孝市が、ともに長きにわたって背負い続けて、新たな価値を加えたナンバーだ。
野間峻祥の「37」も緒方が若手時代に着けていた背番号。
西川龍馬の「63」は丸が13年まで着けていたナンバーで、ともに出世番号と言えるだろう。
新井貴浩の「25」は、監督として就任1年目の86年に優勝へ導いた
阿南準郎(潤一)が現役時代に着けていた背番号だ。
ムードメーカー・
上本崇司の「0」は支配下登録選手で初めて着けた
長嶋清幸から
木村拓也らを経て。17年限りで退団した
梵英心の「6」は
小早川毅彦の印象が強い背番号で、来季からは
安部友裕が着ける。
堂林翔太の「7」は初優勝に導いた
山本一義、低迷期を支えた
野村謙二郎らから、
岩本貴裕の「10」は
金本知憲らから、それぞれ受け継がれたものだ。
大瀬良大地の「14」は完全試合を含むノーヒットノーラン3度の
外木場義郎から“炎のストッパー”
津田恒実らに継承された栄光の背番号。
今村猛の「16」は沖縄初のプロ野球選手・
安仁屋宗八や86年の新人王・
長冨浩志ら。
岡田明丈の「17」は日本シリーズに強かった
山根和夫らから受け継がれた。
一方で、昭和の投手王国を築いた
北別府学の「20」は故障に苦しむリリーバーの
永川勝浩が長く背負い、変則派・
池谷公二郎の「11」は
福井優也の背に。
大野豊の「24」と
川口和久の「34」は、ともに若手の
横山弘樹と
高橋昂也に。開花が待たれるナンバーとなっている。
また、
野村祐輔の「19」や
薮田和樹の「23」、打者では
松山竜平の「44」などは、新たなイメージが築かれつつある背番号だろう。
現在の欠番と永久欠番
メジャーで活躍する
前田健太が着けていた「18」は、創設期のエース・
長谷川良平から続くエースナンバーで、2つの黄金時代に挟まれた低迷期に
佐々岡真司が背負い続けた。現在は欠番だ。
兼任監督も務めた
白石勝巳を初代として、
金山次郎、
古葉竹識、
大下剛史、
山崎隆造ら錚々たる顔ぶれを経て、天才・
前田智徳が背負った「1」も欠番が続いている。ちなみに、前田が若手時代に2年だけ着け、その前に江藤が1年だけ着けていた貴重な打者ナンバーが、
鈴木誠也の「51」だ。
昭和の永久欠番は“ミスター赤ヘル”
山本浩二の「8」と“鉄人”
衣笠祥雄の「3」。広島だけでなく、日本プロ野球史に名を深く刻み込んだレジェンドだ。平成となり、黒田博樹の「15」も永久欠番の仲間入り。黒田がメジャーでプレーしている間も欠番となっていて、15年に復帰した黒田は再び「15」を背負い、16年のリーグ優勝を見届けて現役を引退した。
連覇を果たした17年、彼らと似た存在感を持つ選手はいない。ただ、失われた大きな穴を多くの背番号たちが埋め合わせ、新たに平成の黄金時代を築きつつある……。そんな想像ができるのも、広島ならではの楽しみ方ではないだろうか。
写真=BBM