背番号は選手たちの「もうひとつの顔」だ。ある選手が引退しても、またある選手がその「顔」を受け継ぐ。その歴史を週刊ベースボールONLINEで紐解いていこう。 若松、池山、岩村、青木、山田に受け継がれる「1」
2リーグ分立時、最後に加入したのが国鉄スワローズ。その後、サン
ケイスワローズ、サンケイアトムズ、ヤクルトアトムズなどの紆余曲折はあったが、背番号の系譜においては比較的、安定感があるのが特徴だ。
ただし、数少ない“脱線”が「34」。創設1年目の8月に17歳で入団、低迷の続く中で孤軍奮闘し、チームに君臨した
金田正一の背番号だ。単に空いていた番号を割り振られた少年は、球団が国鉄からサンケイへと変わろうとしていた1965年に
巨人へ移籍してからも「34」を背負い続けて、V9の礎を築いた。
通算400勝を置き土産に巨人で現役を引退、「34」は左腕の代表的な背番号となり、巨人でこそ永久欠番になったが、サンケイでは66年には早くも野手の
東条文博が着け、投手ナンバーですらなくなった。ヤクルトとなって84年に
高野光が「34」で新人ながら開幕投手を務め、再び脚光を浴びたものの、2000年代からは外国人選手が入れ代わり立ち代わりという状況となった。来季からは今オフ、
ソフトバンクから移籍してきた左腕、
山田大樹が背負う。好左腕のイメージを復活させることができるか。
金田に続く第2エース・
村田元一が65年から着けた「11」は、
荒木大輔らを経て、故障から復活を遂げた
由規の背に。国鉄時代の
巽一から、ヤクルトとなって
会田照夫、
伊東昭光らに受け継がれた「18」は、ドラフト1位で17年に入団した
寺島成輝に。金田に続いて完全試合を達成した
森滝義巳の「21」も
鈴木康二朗、
吉井理人、
伊藤智仁らを経て、リリーバーの
松岡健一に継承されている。
ヤクルトとなって決定的となった背番号のイメージも大切に継承される傾向がある。特筆すべきは「1」だ。日本人として歴代最高の通算打率を残した“小さな大打者”
若松勉は72年に「57」から“昇格”して初の首位打者に。以来、“ブンブン丸”池山隆寛が「36」から、“何苦楚魂”の
岩村明憲が「48」から、左の安打製造機・
青木宣親が「23」から、そして16年、プロ野球史上初の2年連続でトリプルスリーを達成した
山田哲人が「23」から“昇格”。タイプは違うが、打線の主軸として認められた好打者たちの背番号だ。
欠番が続く2つの背番号
ヤクルト以降のエースナンバーと言えるのが「17」だろう。初の日本一に貢献した
松岡弘から
川崎憲次郎、
川島亮と受け継がれ、現在は
成瀬善久へ。ただ、成瀬は
ロッテ時代から「17」を着けており、2つの系譜が合流した珍しいパターンだ。
浅野啓司、
梶間健一、
山部太らの「19」は
石川雅規が継承。
安田猛の「22」はクローザーの
高津臣吾へ受け継がれ、ドラフト1位で15年に入団した竹下信吾への“シンゴつながり”になったが、竹下は今季限りで戦力外。来季からはドラフト3位入団の
蔵本治孝が背負うことになった。
打者でも
大杉勝男、広沢克実ら長距離砲の背番号だった「8」も近年は
佐藤真一、
武内晋一と“シンイチつながり”だ。
武上四郎の「2」は
飯田哲也らを経て
大引啓次へ、“赤鬼”マニエルの「4」は日本新記録シーズン60本塁打の
バレンティンへ、
角富士夫や
土橋勝征ら職人タイプの「5」は
川端慎吾へと継承された。
野村克也監督時代からの流れでは、
石井一久の「16」は投手時代の(高井)
雄平を経てドラフト1位で16年に入団した原樹里へ。石井、高津の復帰で「16」、「22」から次々に追われて「41」となった雄平は野手転向で大成、結果的に
稲葉篤紀の「41」を継承した形となった。
「27」は正捕手の背番号だ。金田のボールをノーサインで受けた“正妻”
根来広光から
加藤俊夫を経て
大矢明彦が、野村監督時代からは古田敦也が背負い、08年から欠番。また、内野守備と犠打の名手・
宮本慎也が一貫して背負い続けた「6」も14年から欠番が続く。この2つの背番号を受け継ぐ次世代に、ヤクルト再起のカギが託される。
写真=BBM