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背番号物語

【背番号物語 序章11】ヤクルト「主軸の『1』と絶対的正捕手の『27』」

 

背番号は選手たちの「もうひとつの顔」だ。ある選手が引退しても、またある選手がその「顔」を受け継ぐ。その歴史を週刊ベースボールONLINEで紐解いていこう。

若松、池山、岩村、青木、山田に受け継がれる「1」



 2リーグ分立時、最後に加入したのが国鉄スワローズ。その後、サンケイスワローズ、サンケイアトムズ、ヤクルトアトムズなどの紆余曲折はあったが、背番号の系譜においては比較的、安定感があるのが特徴だ。

 ただし、数少ない“脱線”が「34」。創設1年目の8月に17歳で入団、低迷の続く中で孤軍奮闘し、チームに君臨した金田正一の背番号だ。単に空いていた番号を割り振られた少年は、球団が国鉄からサンケイへと変わろうとしていた1965年に巨人へ移籍してからも「34」を背負い続けて、V9の礎を築いた。

 通算400勝を置き土産に巨人で現役を引退、「34」は左腕の代表的な背番号となり、巨人でこそ永久欠番になったが、サンケイでは66年には早くも野手の東条文博が着け、投手ナンバーですらなくなった。ヤクルトとなって84年に高野光が「34」で新人ながら開幕投手を務め、再び脚光を浴びたものの、2000年代からは外国人選手が入れ代わり立ち代わりという状況となった。来季からは今オフ、ソフトバンクから移籍してきた左腕、山田大樹が背負う。好左腕のイメージを復活させることができるか。

 金田に続く第2エース・村田元一が65年から着けた「11」は、荒木大輔らを経て、故障から復活を遂げた由規の背に。国鉄時代の巽一から、ヤクルトとなって会田照夫伊東昭光らに受け継がれた「18」は、ドラフト1位で17年に入団した寺島成輝に。金田に続いて完全試合を達成した森滝義巳の「21」も鈴木康二朗吉井理人伊藤智仁らを経て、リリーバーの松岡健一に継承されている。

 ヤクルトとなって決定的となった背番号のイメージも大切に継承される傾向がある。特筆すべきは「1」だ。日本人として歴代最高の通算打率を残した“小さな大打者”若松勉は72年に「57」から“昇格”して初の首位打者に。以来、“ブンブン丸”池山隆寛が「36」から、“何苦楚魂”の岩村明憲が「48」から、左の安打製造機・青木宣親が「23」から、そして16年、プロ野球史上初の2年連続でトリプルスリーを達成した山田哲人が「23」から“昇格”。タイプは違うが、打線の主軸として認められた好打者たちの背番号だ。

欠番が続く2つの背番号


ヤクルト・古田敦也


 ヤクルト以降のエースナンバーと言えるのが「17」だろう。初の日本一に貢献した松岡弘から川崎憲次郎川島亮と受け継がれ、現在は成瀬善久へ。ただ、成瀬はロッテ時代から「17」を着けており、2つの系譜が合流した珍しいパターンだ。


 浅野啓司梶間健一山部太らの「19」は石川雅規が継承。安田猛の「22」はクローザーの高津臣吾へ受け継がれ、ドラフト1位で15年に入団した竹下信吾への“シンゴつながり”になったが、竹下は今季限りで戦力外。来季からはドラフト3位入団の蔵本治孝が背負うことになった。

 打者でも大杉勝男、広沢克実ら長距離砲の背番号だった「8」も近年は佐藤真一武内晋一と“シンイチつながり”だ。武上四郎の「2」は飯田哲也らを経て大引啓次へ、“赤鬼”マニエルの「4」は日本新記録シーズン60本塁打のバレンティンへ、角富士夫土橋勝征ら職人タイプの「5」は川端慎吾へと継承された。

 野村克也監督時代からの流れでは、石井一久の「16」は投手時代の(高井)雄平を経てドラフト1位で16年に入団した原樹里へ。石井、高津の復帰で「16」、「22」から次々に追われて「41」となった雄平は野手転向で大成、結果的に稲葉篤紀の「41」を継承した形となった。

「27」は正捕手の背番号だ。金田のボールをノーサインで受けた“正妻”根来広光から加藤俊夫を経て大矢明彦が、野村監督時代からは古田敦也が背負い、08年から欠番。また、内野守備と犠打の名手・宮本慎也が一貫して背負い続けた「6」も14年から欠番が続く。この2つの背番号を受け継ぐ次世代に、ヤクルト再起のカギが託される。

写真=BBM

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