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背番号物語

【背番号物語 序章12】楽天「築かれつつある新たな印象」

 

背番号は選手たちの「もうひとつの顔」だ。ある選手が引退しても、またある選手がその「顔」を受け継ぐ。その歴史を週刊ベースボールONLINEで紐解いていこう。

いきなり永久欠番



 2005年、球界再編の激動を経て、東北は仙台の地に創設された楽天。オリックスに吸収された近鉄の選手たちが分配ドラフトでオリックスと楽天とに分けられて、背番号の初代は近鉄時代の背番号そのまま、というものが少なくない。初代エース・岩隈久志の「21」や初代クローザー・福盛和男の「15」、野手では吉岡雄二の「3」、礒部公一の「8」、鷹野史寿の「9」などが主な例だ。新しい背番号となった例としては、「12」から“変更”した山村宏樹の「16」。山村は近鉄時代を知る数少ない投手として長きにわたって楽天を支えた。

 彼らは中心選手として新球団を支える存在となったが、ほかのチームに比べれば全体的には戦力不足。1年目は97敗を喫するなど苦しい戦いとなり、以降2年連続で最下位に沈んだ。ちなみに、近鉄と楽天は別の球団であるため、ここでは系譜とは考えず、楽天の創設を起点として話を進めていく。

 新たに獲得した選手では、オリックスから戦力外通告を受けていた山崎武司の存在が大きい。楽天で初めて「7」を着けた山崎は、すでにベテランの域に達していたものの、主砲としてチーム最多の25本塁打を放ち完全復活。楽天3年目の07年には43本塁打、108打点で本塁打王、打点王の打撃2冠に輝いて、最下位脱出に貢献した。熟練されたベテランの技量は若いチームには不可欠となり、その後も打線の主軸となってチームを引っ張る。

 山崎は12年に古巣の中日へ復帰したが、13年限りで現役を引退するまで、その「7」を背負い続けた。楽天の「7」は12年から松井稼頭央の背に。松井が西武時代に着けていたナンバーでもあり、選手としてのタイプは違うが、楽天における精神的支柱を継承したと言うこともできるだろう。

 また創設時、ナイン(9)に続く「10」がファンのための背番号として永久欠番となった。以来、球団マスコットのクラッチが「10」のユニフォーム姿で球場を盛り上げている。

現在は欠番の「18」


楽天・田中将大


 その後、野村克也監督が南海での現役時代と同じ「19」で指揮を執り、09年に初のAクラス2位となってクライマックスシリーズへ。惜しくも日本シリーズ進出は逃し、契約を更新されなかった野村監督は勇退したが、その背番号は翌10年から欠番が続いていた。17年になって、ドラフト1位で入団した投手の藤平尚真に与えられている。

 13年、楽天は初のリーグ優勝、日本一に。創設9年目の快挙だった。このとき無傷の24連勝で立役者となったのが田中将大だ。同年限りで田中はメジャーへと羽ばたいていったが、その「18」は準永久欠番に。田中は藤平にとって、あこがれの存在でもある。その次、という意味で「19」を背負った藤平は、「18」の継承を目指して右腕を振るう。

「18」が欠番で、球団の歴史が短いこともあって、エースナンバーを断定することは難しいが、その候補の筆頭は13年の新人王でもある則本昂大の「14」だろう。17年にはメジャー記録と並ぶ8試合連続2ケタ奪三振。新たな歴史を構築しつつあるナンバーだ。

 この投手陣を巧みにリードする司令塔が嶋基宏だ。入団当時の07年から野村監督による「足して10になる数字」という縁起かつぎにあやかって「37」を背負い、15年には楽天のみの記録としては初となる通算1000試合出場に到達。チームリーダーとしての存在感も抜群だ。嶋の「37」は楽天の誇る正捕手の背番号、と言えそうだ。

 ちなみに、日本一に導いた星野仙一監督の「77」は、星野監督が退任した14年を最後に欠番が続いている。星野が監督としては一貫して背負い続けているナンバーでもある。

写真=BBM

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