背番号は選手たちの「もうひとつの顔」だ。ある選手が引退しても、またある選手がその「顔」を受け継ぐ。その歴史を週刊ベースボールONLINEで紐解いていこう。 失われた背番号
プロ野球の歴史が続いていく中で、いくつもの球団が、さまざまな事情で終焉を迎えた。そして、その背番号もまた、歴史の闇に埋もれていった。序章の最後に、その闇の中を少しだけ照らしてみたい。
1リーグ時代は、プロ野球が軌道に乗っていなかったこともあって、球団の合併や解散が繰り返され、そのたびに背番号の系譜が途絶えた。2リーグ制となっても球団の合併は続き、セ・リーグ初代王者の松竹までが大洋と合併。大東京として参加した1936年から“水爆打線”までの系譜が失われた。
新球団も創設された。球史で異彩を放つ高橋ユニオンズが参加したのが54年。翌55年にトンボとなり、高橋に戻った56年限りで大映スターズと合併して大映ユニオンズとなったため、系譜は3年のみで途絶えたが、簡単に紹介すると、金星時代の48年を除いて
巨人時代から「17」を着けていた
スタルヒンは、高橋でも「17」を背負い、日本球界初の通算300勝を達成。56年に入団してリーグ最多の180安打を放った
佐々木信也は「6」で、大映となった57年には「9」となったが、さらに大映が毎日と合併して大毎となった58年には「6」に戻している。
この合併を最後に全12球団となったプロ野球は、球団の経営が変わることはあったものの、しばらくは安定飛行が続いていた。しかし、2004年の球団再編で、2リーグ創設から参加している近鉄が
オリックスと合併し、事実上の消滅。長い歴史を持ち、多くの伝説を残した近鉄の消滅は、それまでの合併や解散とは比べものにならないほどの衝撃を球界に与えた。背番号の系譜も消滅。大阪ドームでの最終戦を前に
梨田昌孝監督が選手たちに放った言葉は、あまりにも重く、せつない。
「胸を張って戦え。君たち全員が近鉄の永久欠番だ!」
猛牛たちの系譜
近鉄で唯一、“制定された”永久欠番は“草魂”鈴木啓示の「1」だ。「日本で一番の投手になりたい」と頼み込んで1年目から背負い、300勝を積み上げた。ただ、近鉄の消滅で永久欠番も“消滅”、愛称のバファローズを受け継いだオリックスで近鉄の復刻ユニフォームを野手が着ける姿に微妙な感慨をおぼえたファンも少なくないだろう。
この「1」を除いて、1ケタは野手の背番号だ。「3」は
土井正博や
石井浩郎、
中村紀洋ら長距離砲のイメージが強い。“赤鬼”マニエルの「4」は小柄な
大石大二郎(第二朗)の背でイメージが一新。
佐々木恭介が長く背負った「5」は、01年に中村紀が継承して、そのまま近鉄の終焉を迎えることとなる。
投手では、“トルネード投法”でバックネット裏からも「11」がハッキリと見えた野茂英雄のインパクトは強烈だった。のちに「11」を受け継いだのがクローザーの
大塚晶則(晶文)。大塚が野茂のファンだったためだという。「14」は“10.19”の死闘を演じた
阿波野秀幸の印象が強い。55年にパ・リーグ初の完全試合を達成した武智(田中)文雄の「16」は
佐々木宏一郎が継承して70年に完全試合を達成、縁起のいい投手ナンバーだったが、
ブライアントがイメージを塗り替えた。
大きい背番号にはスター選手の若手時代が並んでいる。結果を出して若い番号に“昇格”するのが近鉄の特徴だった。ちなみに、監督ナンバーとも言えるのが「68」。近鉄を初優勝に導いた
西本幸雄監督のナンバーで、のちに監督となった佐々木恭介が継承している。
さて、長くなったが、ここまでは序章に過ぎない。次回からが本題だ。背番号一つひとつに焦点を絞って、ひとつの数字がつないできた選手たちの様々な物語を紹介していく。
写真=BBM