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トレード物語

【トレード物語25】ラジオで“実況中継”された移籍【1958年】

 

近年は少なくなってきたが、プロ野球の長い歴史の中でアッと驚くようなトレードが何度も行われてきた。選手の野球人生を劇的に変えたトレード。週刊ベースボールONLINEで過去の衝撃のトレードを振り返っていく。

阪神に残留するつもりが……


大毎に移籍した田宮謙次郎


[1958年オフ]
阪神・田宮謙次郎→大毎(A級10年選手)

 1958年と言えば、巨人入りした超大物ルーキー・長嶋茂雄のハツラツとした動きでわきにわいたシーズンだ。そのとき、その超ド級のルーキーを抑えて首位打者となったのが阪神・田宮謙次郎だ。

 首位打者になったA級10年選手――。「A級10年選手」には移籍の自由がある。当然、周囲は早くからざわめいた。

 田宮は、もともと金銭には恬淡としていた。

「10年選手の権利を振り回そうとは思っていない。オレ、タイガースが好きなんだ。法外な要求もしない。A級10年選手として誰もが納得する条件で、球団がそれをのんでくれたら当然、残留」と田宮は言っていた。

 だがオフになると、果たして彼の周辺は騒然としてきた。球団は相当低く抑えにかかっているようであるとか、田宮の要求とは数百万円の差があるとか、タイガースはいざとなったら田宮を手放してもよい気になっているとか、虚実とりまぜたニュースが乱れ飛んだ。

 タイガースと田宮の話し合いは何度も続けられたが、タイムリミットは12月25日午後5時。田宮の要求は、A級10年選手のボーナスを含めて2000万円、球団の提示額は1500万円からで話し合いはスタートしていた。

 田宮は、最後までタイガースに何とか残りたいと考えていたようだ。1800万円まで歩み寄った。球団は1700万円まで近寄った。

 だが、12月25日午後5時半、両者の話し合いは、ついに決裂した。戸沢代表は最後まで球団の最終提案を譲ろうとしなかった。それに、当時のタイガース監督は日系二世のカイザー田中。物事をビジネスライクに考えるタイプだ。義理人情を前面に打ち出すタイプの監督なら、“首位打者”をチームに引き留めるために球団と選手の間に入って、両者の話し合いをまとめるために奔走しただろう。

 だが、田中監督は、そういった引き留め工作は何もしなかった。

 そして、決裂!

田宮が自宅を出るところから……


 なにしろ、セ・リーグの首位打者が、どこのチームへ移ろうが自由ということになったのだ。“首位打者・田宮”はどこへ行く……? と、田宮宅の周辺は連日、早朝から深夜まで報道陣の張り込みが続いた。道路は各社の車でびっしり埋まり、夜になるとテレビ局のライトが煌々と広い庭を照らし、群がる報道陣を目当てに屋台のラーメン店まで出張する騒ぎだ。

“田宮獲得”に力を入れていたのは近鉄と阪急だった。

 近鉄は根本陸夫スカウトが精力的に動いていた。田宮とは日大の先輩、後輩という間柄だ。阪急には強力な援護者がいた。田宮家の近くでたばこ店を営む荒西さんというファン。整体師でもあり、田宮もよくマッサージに通っていて非常に親しくしていた人だ。この荒西さんが、阪急選手の体の手入れもしており、阪急とは強い線で結ばれていた。

 そこに登場したのが松木謙治郎。そのとき東映のバッティングコーチだったが、田宮は松木氏を人生の師と仰いで、芯から私淑していた。そして松木は若いころ、当時の大毎オリオンズの球団監査役・松浦晋氏(のち球団代表)の家にずっと下宿していた間柄。その松木に大毎・青木一三スカウトが食いついた。“口説き役”として、これ以上の適役はいない。

 松木は、よほど田宮がかわいかったのだろう。自分は東映のコーチでありながら、ライバルチームの大毎オリオンズ入りを勧めるため、下阪した。

 いよいよ「今日、田宮選手の移籍先を発表する」という日、なんとラジオが田宮宅を出るところから“実況中継”をした。前代未聞の中継だ。

「ただいま田宮選手は自宅を出発しました。……ただいま田宮選手を乗せた車は淀川を渡りました。……桜橋を渡ろうとしています。車はどちらへ回るでしょうか。左へ曲がれば阪急入りです。右へ曲がれば近鉄入り。真っすぐ進めば大毎入りです。果たして車は……」

 真っすぐ行ったところに、大毎オリオンズ関係者が待ち受けていた国際ホテルがあった。田宮を乗せた車は“真っすぐ”進んで行った。

写真=BBM
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