週刊ベースボールONLINE

キセキの魔球

【キセキの魔球 最終回】魔球と生きた男の、最終マウンド

 

2017年6月19日。大家友和は現役引退を発表した。日米を股にかけて活躍した右腕だが、もしナックルボールと出合っていなければ41歳まで野球を続けることはなかっただろう。どこまでも野球と愚直に向き合った大家とキセキの魔球を巡る物語――。

フロリダでもナックルは進化を推進するモードに


1994年、横浜(現DeNA)で始まった大家の野球人生は最終章を迎えていた


 2017年、ボルティモア・オリオールズの春季キャンプ地、フロリダ州サラソタ。オリオールズとマイナー契約を結んだ大家友和は、有望株を集めたアーリー・キャンプに招待されたのち、約200人の選手が集結するマイナーのキャンプを経て、いよいよ3月15日、オープン戦初戦での登板を控えていた。

 マイナーのオープン戦が始まるまでの23日間で、彼は述べ8回の投球練習を行っている。ブルペンでの投げ込みと、打者を立たせての投球練習を交互に繰り返した。渡米する2週間前まで闘病生活を送っていたこともあり、フロリダに入ってから調整の遅れを取り戻すべく、トレーニングに励み、日本で習得した高精度のナックルボールを1日でも早くアメリカで投げ込めるように、ボールの感覚を取り戻すことに重点を置いていた。

「いいときの球を繰り返し投げるためには、なんとなくつかんだ感覚ではダメなんです」

 たとえナックルボールのことをまったく知らない人に対しても、言葉でちゃんと説明ができるくらいでなければ、自分の中にきちんと落とし込んだとは言えない。いつどんなやり方で究極の感覚をつかめるのか、必死に投げ込んだ999球目か、それとも不意に投げた3球目なのか。入院中2週間休んだからつかむことができたのか、あるいは病床で究極のイマジネーションによって指先の感覚を保ち続けたことが幸いしたのか。

 フロリダ入りしてからずっと追い求めていた感覚が、ある日、よみがえった。大家のナックルボールはついにフロリダでも進化を推し進めるモードへと切り替わっていた。

 だが、そこに立ちはだかる大きな壁があった。一つは41歳という年齢の壁。そしてもう一つはナックルを投げてから4年しかたっていないという経験値の低さだった。さらにナックルボーラーとして実感する孤独と疎外感。コーチたちから何を求められているのか、どこを見られているのか、それさえ分からなかった。普通の球を投げるピッチャーと同じように結果を求められているのか、それとも年齢に関わらず、ナックルとじっくり向き合うことを許されているのか、そして、いずれその球が必ずチームに貢献すると信じてくれているのか、それを彼に説明してくれる者は誰もいなかった。

 マイナー・キャンプに参加する93人のピッチャーの平均年齢は23歳。ちょうど彼がアメリカに渡って最初のキャンプに参加したときが23歳だった。2Aからシーズンをスタートさせ、ふた月後に3Aに昇格し、マイナー11勝無敗の快進撃で渡米から4カ月後にメジャー・デビューを果たした。あのとき、自分が先輩たちを蹴落として這い上がったように、今度は自分が若い彼らに突き上げられる番だった。同じレベルの20歳と40歳の選手がいたら、チームが選ぶのは間違いなく20歳の選手のほうである。
 
 マイナー・リーグは3Aを筆頭におよそ5階級に分れており、それぞれのカテゴリーで25人の選手枠が設けられている。仮に投手枠を1チーム12人とすると、5つのカテゴリーに配属される投手の数は述べ60人。3Aのピッチャー枠は、メジャー・キャンプに参加中の選手によって埋まると考えれば、2A以下残り4階級の投手数は48人。マイナーのキャンプに集まった93人のピッチャーのうち半数がクビになる計算だ。

 キャンプインしたとき、選手たちにはクビになったときの約束事が書かれたマニュアルが配られるそうだ。借用している用具をすべて返すこと、支払い義務のある金の精算をすること、トレーナーのところへ行って書類に署名することなどなど。日常業務の一環として選手の解雇が行われる、それが春季キャンプのごく当たり前の風景だった。

勝負になったナックル


 3月15日、フォートマイヤーズで行われたミネソタ・ツインズとの3Aのオープン戦で、大家はオリオールズの4番手として7回にマウンドへ送り出され、1イニングを投げている。先頭打者をストレートの四球で出塁させたものの、それ以降はストライクを投げ込む確率を格段にアップさせ、続く4人の打者全員をナックルボールで追い込んでいる。

 打者のレベルは、それまでの4年間、日米の独立リーグで投げた相手よりも数段上だった。レベルの高い打者を相手に大家は手応えを感じていた。

————勝負になっている。

 ナックルを投げ込んだ打者の心理を想像してみる。スーッと手から放たれたボールは無回転のままバッターに向かってくる。スピンしていないのに、ボールが揺れると打者は目をつぶる。どのタイミングで曲がるのかが分からない。そのボールを打ってみて初めてナックルボーラーの狙いを知る。

———おまえの見立てとは違うボールだよ。

 そう言いながらナックルボーラーは薄ら笑いを浮かべるだろう。

 初戦でのナックルの精度は悪くなかった。しかし大家は、いつでもクビにされる覚悟をしていた。

「たとえこの挑戦がこの春で終わったとしても、ナックルの理解者のないところでここまでやってきて、これまでキャンプで毎日練習させてもらい、この環境に文句はないです。もちろん投げ続けたくなるボールではありますけれど」

 マイナーのオープン戦は、3A、2A、シングルAクラス、それぞれにおいて16日間に14試合しか組まれていない。その中で100人近くの投手が均等に登板機会を得るわけではなく、どれくらいの頻度で投げるかも選手には事前に知らされない。そうした状況にあって、大家が水曜日と土曜日の週2回、規則正しい間隔で3Aの試合に登板機会を与えられたことは異例だった。

 2度目の登板は3月18日、ちょうど彼の41歳の誕生日だった。2イニングを投げて死球一つだけの無失点に抑えている。しかも7人の打者と対決して3奪三振の好投。しかし大家はこの数字にまったく納得していなかった。なぜなら三振を奪った場面は、フルカウントに持ち込まれてから、いずれも真っすぐとカットボールで片付けているからだ。三振を奪う勝負球はナックルボールであるべきだった。

 フルカウントの場面で打者はナックルを待っていたのだろうか。あるいは手から放たれたときにナックルと別の球種との見分けがつきにくく、手が出なかったのだろうか。

「ナックルを待っているとも考えられますが、今はこれでごまかすことはできても、対戦を重ねていけば必ず、ナックルボール以外の球種を待つはずです」

致命的なミスからクビはつながったが……


 4日後の3月22日、3回目の登板機会を得た。しかしそこで彼は致命的なミスを犯してしまう。2イニングを投げて与四球2、被安打4、ホームランを含む3失点。

「ダメなところが全部出ました。今朝、クビになった選手がいました。本当に1回でもミスをしたら次のチャンスはない感じです。結果が悪かったので、これで終わりと言われても仕方ないです」

 この日、ナックルの精度自体は悪くなかったのだ。コールされるストライクゾーンが狭かったこともあり、苦戦したが、選択したナックルの種類が違っていたのかもしれない。

「変化は小さくても、速いナックルにしても良かったのかと思います」

 たとえば昔のようにストライクゾーンが広い時代ならば、大きな変化が見込める緩めのナックルを投げ込む効果はあっただろう。だが、近年ストライクゾーンは狭まり、この日のように主審のコールよってさらにそれが際立ったとき、ナックルはゾーンを外れる確率が高くなる。だから高速で小さく変化する球で勝負したほうが良かったかもしれない、と彼は振り返るのだ。それでもあえて変化が大きいボールを選んだ理由がそこにはあった。

「ブルペンでは、変化が大きいほうがコーチ受けするので、そうしてしまいました」

 コーチ陣から何を求められているかがつかみきれない中で、生き残るためにコーチ好みのナックルを投げてみたのだ。だがかえってそれが裏目に出た。

「最後にもう一度チャンスをもらえるなら、速い(ナックル)のを投げ込みたいです」

 3月25日土曜日、4度目の登板機会を与えられる。キャンプ終了まで6日、残すところ5試合での起用だった。この日のタンパベイ・レイズ戦には、彼のエージェントである長谷川嘉宣(オクタゴン日本担当部長)が駆けつけている。

「試合前、これが現役最後になるかもしれないなという思いはありました。試合は調子も良くて、前回を払拭するような出来でした。でも、立場的にはいつクビになってもおかしくない状況です。その夜、大家さんとは、ここまでいいピッチングをしたのだから、たとえクビになっても悔いはないんじゃないかという話をしました」

 3イニングを投げて2安打無失点の好投。この結果を受けて長谷川と大家は、もしかしたら残れるかもしれないという望みをふくらませた。その願いを後押しするように、翌26日朝、3日後の29日の試合に先発として3から4イニング投げる登板予定が発表される。

「トライアウトもそうでしたよね、あれがダメならばもうおしまいというときにいいピッチングをしました。そしてまたクビがつながった。その生命力、自分の力でね、さすがメジャーで7年(実働)やってきた人だから、これがダメだったらもうあとはない、というところで必ず生き残っている」

追い詰められる毎日からの解放


1999年、レッドソックスで始まった大家のMLB挑戦。41歳となり、ふたたび夢をつかめたのか……


 27日月曜日の朝、29日の登板予定が先発から2番手に変更されたが、依然3イニングの予定は変わらない。メジャーから降格になった選手が先発で投げることになったための変更だった。

 28日火曜日、春季キャンプ残り3日。

 その朝、練習場で朝食をとり、ミーティングを終えてロッカー・ルームで身支度をしていた。時刻は午前9時を回ったところ。マイナーの統括部長が部屋に入ってきた。そして大家に近づき、オフィスに来てくれと言った。その瞬間、彼は悟った。

 クビになったのだ。

「チームの人には、お前に仕事を与えることができないと言われました。本当にそうなのでしょう。僕が悪いとか、彼らが悪いとかではなくて。チーム構想の中にはいたんでしょうね。ちゃんと勝負になっていたし、キャンプ中もステップアップしたし、確実に成果が出していたし、投げ続けていたらもっと良くなったでしょうし。ナックルボールの定義が分からない中で、ナックルボーラーとしてすべきは無回転。それ以外はどう変化させてもいいわけで、僕のナックルでいいんだって思えました」

 この日は3Aレベルの選手にとっては境目の日となり、大量の選手がカットされている。

 ボストン時代からの顔見知りだったマイナーの運営部長が大家に聞いた。

「これからどうするんだ?」

「日本に帰ります」

 クビになった者たちは、地元へ帰るための航空券を手配してもらうために、総務課のオフィスに列を成した。フィールドでは練習が始まっていた。誰かがクビになったくらいで時間は止まらない。何も変わらないのだ。

 そして大家は、どこかにホッとする自分がいた。フロリダに入ってからちょうど40日目だった。1日クビにならずにしのいだと思ったら、また次の日が巡ってくる。開幕ロースターに残ることを最大限目指し、死力を尽くした。でも、たとえ残ったとしても、はじかれる最先端に置かれた状況は変わらなかっただろう。すべての決着がついた今となり、彼はもう何にもおびえる必要はなかった。追い詰められる毎日からようやく解放されたのだ。

「誰かがオフィスに呼ばれ、クビを宣告される毎日です。あの若さと人数の多さですから、立場として自分は弱い。それに対する抵抗はしたし、だからもしも(合否の)結果が分かっているのだったら、良くも悪くも早く結果を出してほしかった。張り詰めた毎日でしたから、体のことがあって、(残れる、残れないの)結果以前にキャンプを全うするプレッシャーが日々ありました」

 エージェントの長谷川は非常に悔しがった。だが、彼にはもう、大家のナックルボールが生き延びるために打てる手は何も残っていなかった。

「選手の中には2Aでできるって言ったじゃないですか、3Aって話じゃなかったんですかって、現実を直視できない選手も多いです。でも大家さんは、初めからまるで僧侶のようでした」

 彼がまだナックルを投げるずっと前、普通の球を投げる大リーガーだったころ、ある講演会で野球少年からこんな質問をぶつけられている。

「もしも大家選手が漫画のキャラクターだったら、どんな魔球を投げたいですか?」

 そして彼は答えた。

「そやなあ、球速を自由に操れるような、ぜーんぜん魔球に見えないようなボールを投げたいなあ」

 そして彼はのちに本当に魔球を投げるようになった。ボールを握れなかった病床でも、追い詰められたフロリダの日々の中でも進化し続けた大家友和のナックルボール。すべてが完璧に噛み合ったとき、その魔球の軌道は想像を超えるだろう。

 長谷川は言った。

「数十年後、あの球の価値が理解される時が来るかもしれないです」

 2017年の春、大家が現役最後に着けた背番号は「94」。メジャー・デビューのときの背番号が「53」だった。その数字に彼の年齢41を足したら「94」になる。

 引退試合となったタンパベイ戦で最後に打ち取った打球は果たしてどこへ飛んだのだろうか。

「最後は一塁ゴロでした。ふわーっとした球でした。それも僕らしいって言っちゃあ、僕らしい」

 41歳のナックルボーラーは戦いを終え、短くも濃厚な時を刻んだフロリダの地で見事に散ったのである。

<完>

文=山森恵子 写真=Getty Images
週刊ベースボール編集部

週刊ベースボール編集部

週刊ベースボール編集部が今注目の選手、出来事をお届け

関連情報

みんなのコメント

  • 新着順
  • いいね順

新着 野球コラム

アクセス数ランキング

注目数ランキング