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プロ野球デキゴトロジー/12月28日

松井秀喜、引退会見【2012年12月28日】

 

最後のユニフォームはレイズだった


 プロ野球の歴史の中から、日付にこだわって「その日に何があったのか」紹介していく。今回は12月28日だ。

 1993年に入団した巨人、そして2003年に移籍したメジャーでも活躍したスラッガー、松井秀喜。無類のタフガイにも現役を終える日がやってきた。

 2012年12月27日、アメリカ・ニューヨークのホテルで緊急会見。日本時間では28日午前7時からの出来事である。

 全国放送のTV局のほとんどが一斉に松井を映し出した。前日のスポーツ紙の報道のどおり、現役生活に区切りをつける記者会見だった。今回は、そのほぼ全文を再現してみよう。

「長嶋監督には感謝し尽くせない気持ちでいっぱい」


<あいさつ>
 本日をもって20年に及んだ野球人生に区切りをつけたいと思い、20年間応援してくださったファン、報道の皆さまに感謝の気持ちを伝えたいと思います。

 今(2012年)シーズンは3カ月くらいしかプレーできませんでした。マイナーからスタートし、メジャーに上がり、プレーする機会をいただきクリーンアップを打たせてもらいましたが、結果が振るわなかった。これが一番大きな要因です。

 10年前にメジャーに挑戦するときに話しましたが、『命懸けでプレーし、メジャーという場で力を発揮する』という気持ちでやってきましたが、結果が出なくなったということです。『命懸けのプレー』もこれで終わりを迎えたんじゃないかと思います。

 僕の野球人生を振り返りますと、北陸の小さな町で生まれ育ち、野球を始め、地元の高校で甲子園に出るという目標を達成でき、注目もしていただき、高校3年のとき、ジャイアンツにドラフト1位で指名していただき、長嶋監督にクジを引いていただきました。長嶋監督に出会い、毎日のように2人きりで指導していただき、その日々が僕の野球人生にとって大きな礎になりました。その出会いに関しては大きなもの、長嶋監督には感謝し尽くせない気持ちでいっぱいです。

 ジャイアンツで10年間で3度の日本一になり、日々幸せで充実した時間を過ごせました。センターにコンバートされたとき、長嶋監督から『ジョー・ディマジオのような選手を目指せ』と言われたんですが、そのとき、ぼんやりとヤンキースというチームをイメージし、ずっと頭の中に残りました。1999年のオフ、ニューヨークのヤンキースの試合を1日でいいから見てみたいと思いアメリカに行きました。ヤンキー・スタジアムでヤンキースの試合を見たことが運命のような気がします。ヤンキースの選手が放っている空気、ヤンキー・スタジアムの雰囲気。3年後にFAになるのは分かってはいましたが、3年後、このチームから欲しいと言われるような選手になりたいと思いました。

 そして3年後、運良くヤンキースに誘っていただき、(決断まで)苦しい思いもしましたが、あこがれのヤンキースで7年間もプレーできたのは、僕にとって最高の出来事でした。ヤンキー・スタジアムで初めてプレーしたこと、最後にプレーしたことは一生忘れることはありません。

 20年間たくさんのファンの方に応援していただき、僕の大きな力になりました。素晴らしい指導者とチームメート、僕にとって一番大きな誇りです。今後につきましては、まだ(引退を決断して)時間もたっていませんし、あまり決めておりません。ゆっくりしながら今後のことを考えていきたいと思います。20年間、ファンの皆さま、温かい声援をくださり、ありがとうございました。

「何一つ後悔はない」


<記者との質疑応答>
――引退を決断したタイミングはいつごろだったのでしょう。

松井 常にありましたけど、傾いたのはつい最近ですね。

――巨人から復帰の誘いはなかったのでしょうか。

松井 10年前、ジャイアンツの四番バッターということに対して誇り、責任を持ってプレーしていたつもりです。もし戻ってプレーすることになれば、たくさんのファンの方が10年前の姿を見たいと思うし、期待します。正直言いましてその姿に戻れる自信が強く持てませんでした。

――巨人とヤンキースについてお聞かせください。

松井 巨人は故郷(ふるさと)のようなチーム。ヤンキースはあこがれていたチームでしたが、家族のような時間があったし、家族の一員になれたような気がします。

――20年間で一番の思い出を教えて下さい。

松井 いっぱいありますね……やはり、長嶋監督と毎日、2人で素振りした時間ですかね。一番印象に残っています。

――引退することを最初に報告したのはどなただったのですか?

松井 妻です。「お疲れさま」と言ってもらいました。そのひと言に集約されています。彼女が一番のファンでいてくれたと思いますし、支えてくれました。ケガをしてから結婚したので心配をかける時間が多かった気がします。普段は球場には来ませんが、2009年のワールド・シリーズは全試合球場で観てました。それが唯一の恩返しですね。

――長嶋監督には報告されたのでしょうか。

松井 報告はしてあります。電話だったのですべての気持ちは伝わったかどうか分かりませんが、少し残念な気持ちと、よく頑張った、ご苦労さんという気持ちと両方あったような気がします。

――松井選手にとって長嶋監督とはどのような存在ですか。

松井 プロ野球選手としての心構え、練習への取り組み方、試合への取り組み方、すべてにおいて学んだことは20年間の大きな支えになりました。

――今後についてお聞かせください。

松井 これまでの経験をいろんな世代、いろんなファンに伝えていけたらいいですね。ただ20年間、プロ野球しかやっていませんから、いろいろ勉強しながら土台をつくる時間が必要だと思います。

――指導者への道をお考えではないですか?

松井 現時点では想像していないです。ただ、もしかしたら将来そういう縁があるかもしれないですね。

――日米通算で507本塁打を打たれました。その感想をお願いします。

松井 本塁打は確かに僕の魅力の一つだったと思いますが、僕が常に意識したのはチームが勝つことで、そのために何をするかを一番大きく考えていました。

――引退に悔いはありませんか?

松井 そのとき、そのときに自分で決断してきましたし、何一つ後悔はないし(心残りも)ないですね。

――今の率直な心境をお聞かせください。

松井 寂しい気持ちとホっとした気持ち。いろんな気持ちがあります。複雑ですね。「引退」という言葉は使いたくないですね。草野球の予定も入っているし、まだまだプレーしたい(笑)。

――今、自分にかけたい言葉はありますか。

松井 「よくやった」という気持ちはありません。「頑張ったね」というのもない。そんなに苦労した思いもないですし「もう少しいい選手になれたかもね」ですかね。

写真=Getty Images
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