週刊ベースボールONLINE

プロ野球仰天伝説

【プロ野球仰天伝説24】“権藤、権藤、雨、権藤”の流行語は誇張のない真実だった

 

長いプロ野球の歴史の中で、数えきれない伝説が紡がれた。その一つひとつが、野球という国民的スポーツの面白さを倍増させたのは間違いない。野球ファンを“仰天”させた伝説。その数々を紹介していこう。

「もう一人の僕がいた」


すさまじい勢いで投げまくった権藤


 1961年、巨人との激しい優勝争いのなか、69試合で35勝を挙げ、2リーグ制最多の429回1/3に投げた中日の新人・権藤博。すさまじい連投に巨人の投手・堀本律雄が、「中日には権藤しか投手がおらんのか。権藤、雨、移動日、権藤、雨、権藤や。つぶれてしまうぞ」と新聞記者に言ったことから、「権藤、権藤、雨、権藤」というフレーズが流行語になった。

 登板数が一番多かった月は、8月の14試合で、うち完投8(完封2)だったが、梅雨時の7月に、ほぼフレーズどおりの時期もあった。7月4日からの雨、完封、雨、移動日、完投、雨、移動日、先発(5回)、雨、雨、移動日、先発(5回)という12日間だ。

 当時でさえ「酷使ではないか」という批判があり、実際、途中からは肩痛に苦しんでいたが、それでも濃人貴実監督は「権藤は九州男児だから大丈夫」と動じなかった。しかし、翌年の30勝で燃え尽きた。10勝、6勝と勝ち星が減り、65年には内野手転向。68年投手に戻ったが、1勝しかできず引退となった。

 権藤自身は後日、「あのころはもう一人の僕がいたような気がします。自分でもすごいと思う」と語っている。

権藤博(ごんどう・ひろし)
1938年12月2日生まれ。佐賀県出身。鳥栖高からブリヂストンタイヤを経て61年に中日へ。1年目から35勝、防御率1.70で最多勝利、最優秀防御率のタイトルを獲得し、新人王、沢村賞に輝いた。翌62年には2年連続最多勝も、その後は肩痛で失速。65年に野手転向、68年に投手復帰も1勝にとどまり、翌69年限りで現役引退。横浜では監督も務めて98年にチームを優勝、日本一へと導いている。主なタイトルは新人王、最優秀防御率1回、最多勝利2回、最多奪三振1回、沢村賞1回。通算成績210試合登板、82勝60敗、防御率2.69。

写真=BBM
週刊ベースボール編集部

週刊ベースボール編集部

週刊ベースボール編集部が今注目の選手、出来事をお届け

関連情報

みんなのコメント

  • 新着順
  • いいね順

新着 野球コラム

アクセス数ランキング

注目数ランキング