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背番号物語

【背番号物語】「#30」監督ナンバーから“怪物”江川卓の代名詞へ

 

背番号は選手たちの「もうひとつの顔」だ。ある選手が引退しても、またある選手がその「顔」を受け継ぐ。その歴史を週刊ベースボールONLINEで紐解いていこう。

偉大なる名将



 古くは監督の背番号。その系譜には伝説の名将たちが並ぶ。チームだけでなく、現在まで続くプロ野球の礎を築いた功労者たちだ。

 1938年に連盟から「背番号は30番まで」という通達があり、その最大ナンバーとして監督が「30」を着けた、という説が有力で、指導者のイメージとなったためか、しばらくは「30」のコーチもいた。指揮を執りながら選手としてもプレーした監督も少なくない。

 一方で、選手の背番号のまま指揮を執る兼任監督も増えてきて、徐々に「30=監督」という方程式は崩れていく。最後までこだわったのが阪急の上田利治監督。オリックスとなった90年まで「30」で指揮を執り続けた。

【12球団主な歴代背番号「30」】
巨人 藤本定義(監督)、水原茂(円裕。監督)、江川卓、橋本清宮國椋丞

阪神 石本秀一(監督)、若林忠志(兼任監督、監督)、平田勝男久保田智之石崎剛

中日 池田豊(監督)、天知俊一(監督)、郭源治、パウエル、阿知羅拓馬

オリックス 山下実(兼任監督)、上田利治(監督)、戎信行相川良太鈴木康平☆(2018〜)

ソフトバンク 高須一雄(監督)、山本(鶴岡)一人(兼任監督、監督)、内之倉隆志長谷川勇也☆、武田翔太

日本ハム 横沢三郎(監督)、水原茂(監督)、津野浩金子誠鍵谷陽平

ロッテ 苅田久徳(兼任コーチ)、森田芳彦小林雅英伊藤義弘大嶺祐太

DeNA 中島治康(兼任監督・助監督)、宮崎剛(コーチ、監督代行など)、友利結(デニー友利)、土肥義弘飯塚悟史

西武 宮崎要(兼任監督、外野手)、重松通雄(コーチ)、伊原春樹広橋公寿岡本洋介

広島 石本秀一(監督)、白石勝巳(兼任監督、監督)、小川達明音重鎮玉木重雄一岡竜司

ヤクルト 西垣徳雄(監督)、宇野光雄(監督)、君波隆祥(威嘉)、山部太西田明央

楽天 紀藤真琴、玉木重雄、永井怜長谷部康平池田隆英
(☆は現役)(2018〜)

阪神は強力リリーバーの“リレー”


阪神・久保田智之


 選手としての最初は巨人の千葉茂で、ルーキーイヤーの38年に1年だけ着けている。連盟から通達があった年に最大ナンバーを背負った新人がいたことになるが、その初代は総監督だった浅沼誉夫。藤本定義や水原茂(円裕)ら名将たちは千葉の後継者になる。

 巨人の系譜を追いかけていくと、“怪物”江川卓がいる。強烈なインパクトを残し、「30=江川」という方程式に書き換えた存在だ。後にも先にも、投手にも打者にも、これほどの痕跡を残した選手はいないだろう。とは言え、80年代のセ・リーグには名選手が並ぶ。同じ投手で中日には若手時代の郭源治が、ライバルの阪神には巧打の平田勝男がいた。

 のちに中日は巧打の助っ人パウエルを経て“背番号コレクター”森野将彦が着けたが、かつては同様に背番号の変更を繰り返した板東英二がいた。入団した59年から2年だけ着け、阪神や広島で初代の監督となった石本秀一がコーチとして加入したことで「14」となったが、その退団で63年から「30」に戻し、また2年だけで「14」となっている。

 阪神では移籍してきたパウエルが1年だけ着けてから、若手時代の藤川球児を経て久保田智之が継承する強力リリーバーのリレーに。ロッテのクローザーとして“幕張の防波堤”と呼ばれた小林雅英はメジャーでも「30」でプレーし、巨人で江川の後継者となった。

写真=BBM
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